2020年12月19日土曜日

対面本位主義・・・・

 開国後の日本で福沢冨吉は・・・西欧文化、西欧の言葉を、日本人に解るように、新は日本語を創った人でも有る。

社会主義・共産主義・民主主義等々の、言葉も日本人が作った言葉と言う事に成る。

個人主義と私は何度も書くが・・個人主義は過去から有る、己さえ良ければ、これは動物でも持つ、本能に成る。

当然、人間も有るのが普通に成る。

今回、私が思う、現代の個人主義は、個人主義に有らず・・・要は、奴隷としての搾取される事が、己の思う通りと言う錯覚を洗脳されている事を書きたいと思う。


昔も、己が良ければ生きる人は多かった・・・しかし、分以上の大きな事は求めない、分相応の範囲で、考えていた事に成る。

世間が、どうであれ、己の分は此処と確りした、ポジションを持っていた・・・その為に、些細な扇動等で、動じない人が多かった。

何度か書いて居るが、昔、キリスト教の宣教師が・・・農民に、キリストを信じると天国に行けると言われ、俺だけ行っても意味が無い・・・死んだ祖先はどうなるのか、貴方が言う様に、地獄に居るなら私は地獄に行く事は当然と言ったとの事・・・

私は、地獄の分だし、レベルなら、当然、地獄に居るの必然と言う価値観に成る。

これも、個人主義に成る。己の分が有るなら、その分でこの場に留まると言う、思いも、個人主義に成る。

末法と言う時代は・・・奇麗ごと、之が正しいと言う、全体意識が、人々を支配し、それに従う事が、協調性だし、幸せに繋がると言う、流れに成る・・・勿論、極一部の部分だが・・・

要は、分を越えた、扇動に対して従う・・・それを適えている間が幸せと言う妄想に成る。

誰しも解ると思うが、分を越えた振舞い、運が良いなら別だが・・・破綻に向かっている。

しかし、世間がそれを求めている、要は、世間に対しての対面を保つ事が、最優先に成り・・・その為に、己の分を越えた居るから、人の世話等々出来ないと言う流れに成っていると言う事

大昔を歴史等で学んでいると思うが・・・・今に比べて、非常に品疎な生活を行っていたが、子育て、親の介護は出来ていないか????出来て居たから今が有る。

大きな争いが無ければ、人口は増え続けたと言う事は、子孫繁栄には向かっていたと言う事に成る。

分相応の生活をすれば、子育ても親の介護も当然、出来た居たと言う事に成る。

勿論、その部分も含みで生活に成るが・・・・

現代は、分けられた、理由は、国のサービスが良い方向に成ったからに成る・・・

国民としては、恵まれた環境に成ったと言う事・・・しかし、この配慮に感謝の思いが国民には現代無いと言う事・・・・

結果、扇動等の風潮に、己を合わせる事に邁進している事に成る。

個人主義だが、現実は社会主義・・・しかし、社会とは????・・一目と成り、対面と成るので、最終的には他人主義と言う事に成る。

本人は、己が良ければと言う思いだと思うが・・・ラジコンの様に操縦されている事に成る。誰に????当然、それで利を得る立場に成る。

周りが之が良いと言うから、その価値が上がる、何故か、周りの数が多いからに成る、考え様では民主主義に成る。

当然、周りが憧れる物を手に入れる・・・周りは羨望の目で見る事に成り、優越感を一瞬だが味わう事が出来る。言葉を変えれば、勝者の雄叫びが出来る事に成る。

これも、動物の本能としては当然と言う事・・・他に勝ちたい本能・・・仕方が無い部分だが・・・それを利用する者が居ると言う事・・・

勿論、私も生物なので、否定できない行動だと考えている。

闘鶏と言うイベントが有るが、鳥の本能で戦う、勝敗は人間が決め、それで一喜一憂している。誰が、人間がと成る。

要は、現代の個人主義と言われる部分は、己本位主義と違うと言う事・・・

個人がどう思うかを優先したか価値観に成るので、本来は、己の思いを主張し主義出来る事・・・多々の思いが有るし、人の数違うのか、個人主義とも言えるが・・之が同じと言う事・・・

要は、己が稼いだ汗の結晶を己の為に使っていると思うが・・・現実は、他人の為に使っていると言う現実・・・己の趣向で決めたと思っていても、それも扇動や誘導で、出来た事に成る。

私は、色んな趣味も持っているし、色んな世界に属している。

例として挙げれば、RCの世界、ジャイロを私が使うと、邪道と言われ、有りえないと成る。又、その流れで、商品を開発・販売している業者からも言われる。

しかし、ジャイロが一般化すると・・・今度は使わない事が、邪道と言われる・・・又否定していた業者さえ、商品を売り出す。

その様な事が、悪いとは思っていない、人間と言う事・・・・・


要は、流れに乗る事が、優先される・・・それが行き過ぎると、己の分さえ超えた流れに乗る事を求められる世界に成る。

泳げない人間が、泳がされることと同じ・・・苛めや暴力に見えるが・・・それが当然・常識と成っているのが、末法と言う時代の一面に成る。

要は、正しいと言う原理主義に進み過ぎる危険性が有ると言う事、理由は、人間だからに成る。間違いも失敗も今回からは嘘もつくのが人間・・・

この人間が、原理原則と言う方向に進み過ぎると、生きる足場が無く成ると言う事に成る。

現代、己の分で生きる事が許されない時代と言っても良い・・・

分を超える、振舞いをすれば、当然、破綻する危険性が増す。

勿論、分が有れば済む事だが・・面白い事に、分が増せば、その上の環境が出て来る。

永遠に続く、無限の、分を越えた振舞いを求められる世界に成る。

これも、地獄図に近いと私が表現する意味にも成る。

本来、地獄が良いと思える人が集まる場が地獄、窯湯でも良い湯だと思えるレベルと言う事・・・当然、天から差し込む光等、興味も無いし、怖いと思っている。

しかし、この世界で誰かが、あの光に近付きたいと言う、流れが扇動に成り、それに従う人が増える、蜘蛛の糸の話に繋がるが・・・蜘蛛の糸を頼りに上り出す、当然、地獄に居た殆どの者がそれに向かう・・・結局、糸は切れる・・・落ちた者も、本来その場所が住み易かった者たちに成るが、哀れで有ると言う意味に成る。

その命・思いで地獄から脱してた、脱した世界が大変に成る。

今の現代の風潮は、人間と言う部分を無視し過ぎている・・・人間は色々居る。

又同じ人間でも、老いたり・病に成ったりする・・・この様な部分を無視し続けている。

最初に書いて居るが、昔の農民の方が、己の分をよく理解していたし、その分の範囲で生きる、この様な知恵を持っていた事に成る。


しかし、己の分さえ・・・悪いと思う、宿命等と言う言葉で、良いイメージでない方向で考えている。己が居ると言う事は、先祖が居た事だし、当然、父母が居たと言う証・・・

その部分も忘れて、己を考えている。

勿論、考えさせない、扇動や風潮が続いている。

要は、守るべき存在を知らず、競う合う相手しか、己の周りに居ないと言う環境を設定ている。競う合う相手が居ると言う事は、それを扇動すれば、利を得る立場が出て来ること言う事、何処の誰かは解らない人を守って居ると言う事にも成る。

肌に本来、感じる、守るべき人には意識は向かわず・・・・赤の他人の為に、生きる、個人主義・・・それを、私は、底面主義から、到達点は、赤の他人主義と言う事に成る。

要は、個人主義は本能の為に、否定する事が出来ない、出来ないならそれを、唆して、利を得る、立場が出て来ると言う事・・・・要は、この部分の人達が本当の個人主義の正体・・・それに洗脳され、赤の他人主義に奔走する、自称個人主義と思って居る人達に成る。

世も末と言われる事に成る・・・それが末法と言う時代に成る。

喜んで振舞う行動が、結果的に己の首を絞めていると言う世界に成る。






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