守、当然の事だと、私は認識している。
その為に、守に対して、強い意識が有る。
親族守と考えた場合・・・当然、実子が居るなら、その人が行うものだと思っている。
しかし、それから逃げる様な行動を取る人も居る・・・当然、私に力が有れば、それも見逃す事が出来ると思うが・・・力が無い、私では背負う事も不可能に近いので、実子に色々言う事に成る。結果、現代では嫌われるタイプと言われる。
家族守も出来ない人が、居ると言う事は、親族が面倒を看る方向に成る・・・現代なら当然、親族の中で誰がと成る。
俺がと手を挙げる人が、居ないのが、私の周りに成る・・・勿論、何度も書く様に、優秀で一流の人が、一般的には多いと思える世界・・・・私の周りは、特別だと思うが・・・
誰が守るのか????・・・・この部分を、現代は確り教える事に成る・・・昔は自然に身に付いていた部分・・・教えなくても良かったが・・・
現代は、教える必要が出て来ているが・・・教えても、何故と成るし、何故俺がと成る・・・・最後は意味が解らないと、無視される事にも成る。
昔は、お金を払う意思が有るから、最初に値段を聞いていたし、少しでも支払いを減らす為に、努力もしていた。
その為に、値切る人は払う覚悟が有るし、信用が出来ると成っていたが、
現代は、値切る等々有りえないと成るし、言われた金額を払う、これが当り前と成っている。
要は、背負う覚悟が有るから、己の分に合っているかの吟味も当然するし、背負える状態に相手が成る事を望む・・・・要は、相手に小言を言う事に成る。
現代は、小言も言えない・・・自由にさせていて・・・問題が起きれば、その大小を問わず、背負う力が必要と言う事に成る・・・私は、力が無いから、背負えない事が発生すれば、逃げようと考える。動物としての本能が出て来る。要は、人間の分を超えた場合は、動物的本能が表に出て来る。
背負える部分も、分相応と考えている。
その為に、己の分を解ってもらう為にも、小言が出る事に成る。
しかし、この小言が、最近は、認められないし、煩いと、一言で片付けられる。
この様な環境に成れば、背負う人間が居る状況を望むなら、先ずは力を付ける事に成る・・・若し、力が付かなければ、当然、背負わないと成る。
私は、古いと言われるが・・・最低でも己の子供には、伝えたいと行動しているが、中々、聞き入れて貰えない・・・
守る事を損と捉えているので、話が理解できないでいる。
要は、「生老病死」も損・負と覆っているので、受け入れていないし・・・当然とは思えない部分に成っている。
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