昨年は色々有った、実父の喪が続いているので、年々のお祝いの言葉は、避けたいと考えている。
今年は、平年の様に、成って欲しいと願っている。
しかし、肌に感じる、世の風は、冷たいし、怖さも有る。
現代は変化が早い・・・立ち止まって考えていても、その時点で時代遅れに成っている。
我家の家族も、今日は、公休に成っている。しかし、嫁は、施設の入所者に正月気分を味わって貰いたいと・・・我が地域の正月料理・・・がめ煮(筑前煮)を作って、差し入れに行きたいと言っていた。
我家の特徴なのかも知れない・・・一人暮らしでどうにもならない人達、正月気分を味合わせたいと、母は、その様な人の分まで、おせち料理を作っていた。勿論、分相応、二~三人分になる。
しかし、今は、この、困っている、人が肌でも増えているように感じているが、見えなくなってきている。
理由は、私も含め、我が家族の、目が届いていない事が要因だと思う・・・・様は、負に対して必死に探そうとする思いが無いと、どうしても、三流の人間、己に取って負と捉えてしまう方向は、意識していないと、直ぐに忘れてしまう。
結果、困っている人等、私の周りに居ない、居ないから手も出せない・・・この理屈になる。
しかし、現実は、己の足下・横にも、居るという事・・・それを隠さないと社会に入れないという恐怖がそれを後押ししている。
私は、人間は、ほったらかしの自由では、崩壊の方にしか向かわないと思っている。戒め等々・・・確りした仕付けが必要と考えている。
理由は、勿論、三流だから、事が苦に感じると逃げるなら・・・間だましで・・・二流・一流には、この様なタイプだとは思いたくないが、所詮・人間も動物・・・・自己保身の命が強い、それに打ち勝つ哲学・ビジョンも持っていないし、教育も受けていない。その為に、現実には、二流・一流とは、この動物的、本能を全うできる、立場を言っているなら、逃げ足が早く、利を貪るのは早い・・この様なタイプが優秀と言うことになっているとすると、今後の、社会は当然、大変な事に成る。
今年は、良い年にしたい・・・・しかし、良いと言うことは、私に取っ手になる・・・狭い度量しかないという事・・・
現実の実社会は、今年は山場だと考えている。要は、負や損に対しての考え方、避け・先に・・・としてきたし、この策が正しいと、妄想を抱いていた。しかし、「生老病死」と同じで、始まりが有れば、終わりが有る。
終わることは、必然、この捉え方が出来なあいので、結果として悪あがきで、己を飾る、粉飾・・・・この見栄が最終的に、大きな負に繋がっている。此が今後、表面化すると私は考えている。
嫁の仕事、介護・・・施設の存続で今年は、戦いになるようだ・・・理由は、利を求めている人が居る。福祉事業なので、人の為と己を犠牲にしても良いと思っている人も居る。
この考え方の大きな違いが、結果的に、施設運営が難しくなる方向になっているようだ・・・
仮に、何故、家族を施設に預けるのか????・・・本人の要望????・・・・・・・それとも、家族の我欲を重視して???
同じ様に、職員は、何の為に、この職を選ぶ????・・・人様が大事で、手を貸したいから???・・・対価が欲しいし、直ぐに雇って貰えるから???・・・
私は、医療費等も、思っていたが・・・サービスをよく、利用者側に厚い介護を!!!と望むなら、それに比例した、対価を要求されても良いと考えている。
要は、家族でさえ、看ていくことが困難だから、施設等に預けたい、困難な理由は、看るためには仕事が出来ない、仕事・糧をお稼ぐために、預けたいというのが本音だと思う。
最初から、本音が欠落して、綺麗事で事が進んでいるから、問題が積み重なっていく・・・
それだけの対価を、施設側が要求すれば、当然、職員の対価も仕事量に合わせた対価を与えることが出来る。
簡単なこと、10のサービスを受けたい・・10万必要と成る。20のサービスを受けたい20万が必要に成る。
この思いと対価のバランスが取れていると、各々、己の分を考えての言動になる。
しかし、この部分が、国からの補填等々だとすると、100のサービスを受けたい、その対価は当然、0円・・国の責任と、責任の所在が代わり出す。当然、国は頭が良い、国に責任が及ばないように、配下の民間機関がその泥よけをさせる・・・結果、ドロは、入所者の為と働いている人の背中に乗ることになるし、当然、対価だけで働いている人は、ブラック企業と不満を言って、辞めていく・・・・
会社・組織等々、見え方で、私は、動物に捉えている、その動物の色々・・・現代の組織は、トカゲ的なシステム・・・様は、末端の人は、トカゲの尻尾切りと同じ立場という事・・・捨て駒、此に対して当然、扱い・対価も過小評価される。
会社の集合体のグループも同じで有る。
私は、大きな事は出来ないし、出来る状況でも今はない・・・しかし、この不満足な体でも、背負える物が有るなら背負おうと思っているし、此が出来るから生きられていると思っている。
母が言っていたが、背から重いから下ろそうと思ったら、死ぬ時と言われていた。死ぬ時、共連れは駄目だから、下ろす・・・平時に下ろしたい、バカと言うより、鬼畜と言われていた。
宇満足な背中でも良いと言う人も居ると思う。己の分で、今年も生き抜いたいと思っている。
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