私は幸せは感謝だと考えているし人の役に立つ事だとも考えている。
人の役に立つ、損と言う考えも有る。損と思えば、当然、感謝の念も出て来ない・・・
西欧的、一神教の価値観だと、感謝される立場が幸せと言う考えも有る。
人の役に立ったので、感謝して貰えると言う価値観に成る・・・・しかし、身近な世界で、親子間での事柄で、親は子の為に背一杯の事をしてあげている。しかし、子は不満を持っているし、今以上を求めるし当然、感謝等の思いは無い・・・・この様な現実、勿論 私だけの場合が有るし、親の施しに対して、全ての子は感謝しているのが、普通かも知れないが・・私が知る限りに範囲では、この様な事は稀な事に成っている。
要は、背一杯の事をさせて頂いていると言う、価値観が必要と言事に私の場合は成った。してやったと、させて貰ったでは、振舞いは同じでも、心・命の捉え方が違ってくる。
私は、幸せは感謝だと思っているから、己の行動で感謝の思いを得る捉え方をしたいと日頃から思っているし、考えている。
私の経験で、近所の老婆・家族を看ていた・・・親族・身内からも無視された人達に成る。
彼らの行動は、西欧的・一神的価値観に、染まっていた・・・結果、お金が有り余裕が有る時は、色んな人に奉仕したと言うより、己を崇めろと言う方向で、お金を散在している。
当然、利を得たいと思う人は、感謝の念等、全くないが、彼らの前では貴方方は神と言うばかりに感謝の思いが有ると見せていた。
しかし、余裕が無くなり、食べるお金も無くなると・・・一気に、取り巻き・近場の身内迄、居なくなるし・・・消え去った。
行政の力を借り、彼らの面倒を看る事に成ったが・・・凄い、我儘・・上げ膳・据え膳が当たり前と思っている人達・・・何度もさじを投げようとも思ったが・・私が、放棄すれば、他には誰も居ない状態・・・結果、死に水を取る迄、面倒を看ていた。
何度が書いているが、最後の面会・・・帰るときに、私に手を合わせて見送られた・・・尾の人が何故と思っていたし・・・不満・要望しか最後は言わない人が、何故と・・・その後亡くなった。
私は、己の心、命が感謝すれば幸せだと考えるようになっている。若し、相手がその施しに対して感謝の念を抱いたら、感謝の相乗効果で・・・幸せが相乗的に増加し、結果、幸福と言う世界を創るとも考えている。
先の老婆の例に挙げれば、面倒を看ていた10年間は、私自身が感謝の思いが有り、幸せだった・・・しかし、最後には、老婆も感謝の思いが出た・・・その時、一瞬でもその環境・空間は、幸福だったと私は考えている。
老婆は、西欧的・一神教的、価値観で、周りに施しを与えていたが・・幸せでも、幸福でも現実では無かったと言う事・・・見せかけの絵に描いた幸せを演じて居ただけで、心は、恨み・妬みが蓄積していた事に成る。
要は、相手が人間だったために、欲をかき過ぎた老婆の考えが、起点に有る。
要は、与えで無く・・・貸した感覚で、倍返しを求めていたと言う事・・・・
又、その様な取り巻きが現実には集まって居た・・・
老婆は、騙されていたことに成るが・・・それを求めていたのも老婆である。
この様な、人々を私は見てきた。
結果、幸せとは????・・・この考え方も変わってきた。
今、私の本業は、商売的に考えれば、損と成るし、辞めた方が常識的だと思う・・・しかし、私を必要としている人も現実には居る・・・人様の役に立てるし、対価としてお金も頂ける・・・幸せを感じ・それ以上に施し迄 頂けている、その一瞬は、幸福だと私は思っているので、続けている。
私は、若い頃、日本国は、生きる為の最低限の環境・施しはして貰える環境が有る。要は、何の為にと言う、部分で、生活・生きる為と言う部分は、排除できると考えている。
己の身の安全が保障されている状態なので、別の次元を目指せると考えている。
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