現代の風潮なのか知れないが・・・言葉では危害・・当たり障りの無い発言をするが、行動が伴っていない、人が多く成っているが・・・子供達がこの方向性に強く成っている。
私の子供の頃は、親、勿論、他人の親や、大人から指摘されたら、理解できなくても、頭を下げ、その場を逃げる、この方向性が多かった。
しかし、最近は上の子供達の頃も、同じだが・・・・大事な今の時期・・・特に、四男は就職して、職場に行くこれが求められている時だし、五男は中三に成って・・高校受験に向けて大事な時期と言うのは、誰しも解る部分だが・・・
この様な時に何故か、人が多く我家に来るようになる。
勿論、他の友達の所に行く事が出来なくなり、行ける場所が減る、これは解るが・・・・
人様の迷惑と考えず、自分の都合、感単に考えると、暇だから、退屈だからと、何処かに行く、その場所が、田舎の為に、友達等の、家に成る。
結局は、同じ仲間・・自分が今、退屈なら友も退屈だと思い込む・・・・同調性が有ると勝手に勘違いしている。
なぜなら、この様な行動に対して、指摘する仲間が居ない・・・若し居れば喧嘩になり、勝った・負けたで事を片付ける事に成る。
嫁の話だと、昨晩も11時に、四男の友達が来たとの事・・・追い返そうと、強く言ったらしいが、「ハイ・解りました」と口で言って、四男の部屋に向かったとの事・・・・
結局、その後、口煩い親が居るという理由で・・・家から出て、その後、4時に電話しても繋がらない・・状態が続いたらしい・・・
上の子供達の時は、この様な環境で、結局、就職しても、辞める・・・高校に入学しても退学や辞める・・・事に成った・・・勿論、本人が一番悪い、確りと、自己主張・・・又は、立場を相手に解らせる努力もしないなら、この様に成るのは必然と言う事になる。
結局、四男に会いに着ている子供達は、予備校や専門学校に行っていると言う子供達・・・
寝ようとしている、四男に「暇」と問い掛ければ、暇となり、暇なら遊ぼうと成る。
この聞き方が、現代では自分の考えの誘導に成っている・・・・対話でなく・・・極端に言えば命令に成っている。
嫌われたくない、この集団に溶け込みたいと思う、弱さを上手に使っている事に成る。
二十歳前の、子供だから、仕方が無いと思うが・・・・・この流れを大人に成っても行っている人も多々居るし・・・以前も書いているが、同窓生が、結果、自殺・一家崩壊と言う部分を、何人も見ているので、私は、心配している。
環境に合わせたいという気持ちは解る・・・・しかし、その環境が自分の分を超えているなら・・努力する、汗を流す事だと思うし、先ずは、分が違うと、考えることだと思う・・・
特に、子供達には、他人からは奉仕、金等を貰うな・・・必ず対価を求めだす・・・怖い言葉が一緒に遊んでいて「仕方ないな~~~この程度の金もないのか・・・貸してやる」この言葉を口から吐く人には、注意が必要に成る。
特に自分が誘って、金を貸して、借りを作り、其れをネタに、その後支配側に成って行く・・・ヤクザのやり方と同じ・・・
本来、自分が誘っているなら、どう振舞うか・・・解ると思う・・・
この様な事を、四男も五男も、今から、教える事が大事、昔は環境や、他の大人や先輩方が教えてくれていた部分・・・・私も親から、年上の先輩を持てと言われていたが・・其れが有った為なのか、人には施しを与えても、人からは基本・頂かないこの価値観が、出来上がった。
最近の、子供達や、一般の人も言えることだが・・・返事は、当たり障りが無い言葉を選んでいるが
理解していない人も多い・・・・
ごめんなさい、私には理解できない、丁寧に教えてください、この様な言葉を出す、人も殆ど居ない・・・
勿論、人だから、恥かしいと言う思いも有ると思う、この恥かしさが嫌なら、独力で学ぶ事に成る。
年上の先輩達を多々持つ、この意味は、この行動が出来易くなる為・・・もし同年輩なら恥かしいが先に出る。
結局、この部分が、有るから、最後は喧嘩に成るし、騙されたと成る。其れまでの行動が全て意味を成さない、不の遺産になるという事に成る。
よく、犯罪・不の部分は、個人に押し付ける・・方向性が有るが・・・本来、人は環境の中で育っている。その環境の一員に自分が居ると言う事は、不の部分の責任も有ると言う事・・・
又、人が作っている環境が、良ければ、騒然、犯罪も減るはず・・・しかし、その環境を作る価値観が、獲る者、損する者の二極化で、得する方向性が、凄い、優秀と言う発想が有れば、当然、損する立場の者が増える事に成る。
この事は、一所懸命に社会に溶け込もうと努力したが、人から利用され、ボロ雑巾に成った、これを不幸と考える、価値観が有るから、その様な社会に溶け込み、負け組みに成らない為に、努力した結果、負け組、この恨みを晴らす、之が犯罪に成って行く・・・
利用されたと言う事は、人の役に立ったと考えれば、不幸では無い・・・・・自分に冨を集めようという我欲が強ければ、不幸と感じる。
一般的に、会社や色んな集団も、奇麗事かもしれないが、社会の為や、人の為という指針を言っている。
これを、謳い文句に出来ると言う事は・・・人々の心の奥底に、この部分が出きればと言う、思いが有ると言う事、これを、現実を経験している、体や頭が、否定する心が有ると言う事にも成る。
結局は、言葉の世界では、奇麗事が多いし、嫌われない為に言葉を出している場合が多い・・・しかし、現実が大きく違う、又、振舞いが大きく違う、この矛盾が、有る為に・・・
子供達が、何を信頼し、模範にしたら良いかが解らない時代に成っている。
例として、親が日頃、「公務員は、駄目だ、自己保身に邁進し、自分の環境を守るこの事だけに注視している・・・国民の下僕たる、立場が、自己保身、こんな、人間には成りたくない」と言っていて、子供には職業は「公務員が良い」と当然の顔をして、言っている。その理由は、勿論、公務員の対場で改革してくれと言う思いなら、解るが、私は違うと思う・・・・
究極は、何人殺し、何人生かしたかが、人の価値だと私は考えている。
出来るなら、人を殺したくない・・自分の振舞い等々が、環境を作っている勿論、三流市民・異端児の為に影響力は少ないと思うが、それでも関わりが有る・・この社会環境の中で、人が生き、死にをしている。生かす努力をしたか????・・・・殺す方向への努力をしたか???は、気付き難いので、したくは無い、損すると思える、奉仕を私は、自分に鞭打って行なっている。
勿論、エリートや一流と言う人は、直ぐに気付くはずと思うが・・・私の周りに居る人は逆に、鈍感な人が多いし、人が不幸になる事を、喜ぶ方向性の人が多い感じがする。
若し、私が感じている事が、全体の社会の構造なら、怖いし、これを変革する、働きも力を必要とする事を意味している。
0 件のコメント:
コメントを投稿