2021年5月16日日曜日

義父の衰え・・・・・

 昨日・・・嫁に実母から、依頼が有ったとの事だが・・・それを嫁は忘れていて・・・今朝、その処理を行った。

要は、物を口にしなくなった、義父が、前回伺った時に、お土産で持っていた、和菓子を喜んで食べていたので・・・その依頼を昨日嫁が受けていたが・・・

今朝、嫁を職場に送る前・・・近所の和菓子屋さんで、購入して嫁里に向かった。

その際・・・義父の衰えがかなり強くなっているとの事・・・・来月に診察が有るが、それ以前に病院に行き可能性が出て来たが・・・老いた老人を、車に乗せるのも、大変だし、当然、人手が要る。

その際、嫁は、私に電話を入れて、手伝わせると言う事を伝えたとの事・・・

里の義兄も、四人の子を育てたが・・・息子二人は、優秀だったので、当然、遠くの大都会に居る。

娘は、当てに成らない・・・・老いた母も居る状態で・・・大変だと思う。

義父が、痴呆症に成り、10年ほど経つ・・・改善方向で無く、悪い方向に向かい続けている。

今では、義兄も解らない・・・己の妻も解らない・・・記憶に残っているのは、幼い頃の風景に成っている。その為に、衣類をまとめ、故郷に帰る、我家に帰ると、毎日言って居られるとの事・・・・

人には、帰巣本能が有る。動物的部分だが・・・最後に残る部分は、この様な部分に成る。

己が一番、輝いていた時・・・誰しもが、社会で活躍していた時を頭に思い浮かべると思うが・・・・この部分は、演じているだけ・・・社会人として、己を隠し、演じる、演者に成る。

その為に、社会からリタイヤした時・・・・この様な部分は、己の武勇伝で有る程度に成り、最終的には意味を成さなくなる。

要は、この世に存在しない・・・母を求めていると言う事に成る。

母を探して三千里・・この様な事を、老いると無意識と言う部分が行う事に成る場合が有る。これが、痴呆症だし、大脳の記憶の部分で、奥底に残っている部分が、最後には残ると言う事に成る。

要は、演者としての名声や肩書等々、意味を成さないと言う事・・・・

嫁に、男手が居る時は、一瞬・・・面倒を看る大部分は、女手で無ければ、義父が嫌がる事は想像できる。

嫁の祖母も痴呆症が進み、最終的に、話している人の年齢も解らない、要は、子供も大人も同じ対応に成ったし、最後に残っていたのは、男女の区別程度に成っていた。

共い生きた、人で、最後まで、頭に有るのは、幼い時ともに過ごした人、姉弟位に成るし、当然、親も有るが、この世に居る訳が無いと言う事に成る。


義父にも近所に弟さんがおられる。未だに解られている様だが、問題は、弟と言う事・・・言う事を素直に、受け入れない部分が、残っている。

勿論、私の嫁、実子だが、解らない・・・要は、他人と言う認識に成っている。

義父は不安が有ると思う、幼子が、他人の中で、迷子になっている状態になる。

痴呆症・・・誰しも起きる可能性が有る。

老いると言う現実を、学べる場が有ると言う事は、己の人生で大事なことに成る。

嫁の里は、姉弟が三人、私の妻が、次女に成り・・長女と、家督を管理する長男と成る。

当然、私は、古い考えの為に・・・嫁里を守る、義務が有る。勿論、嫁の姉の夫も、同じだと思うし、恵まれているのは、同じ市内に住んでいる。

私が、還暦に成ったので、それ以上の年齢だが・・・それでも、男手として使える体を持っている。

又、足らなければ、地元に残っている、孫達も、6人の男手・・・男の孫が居る。

勿論、各自の価値観に成るし、どの様に育てたかの、証明にも成る。

義父は、人生の終盤に成って来た・・・総仕上げと言われる時・・様な何を残し、育てかと言う、これも証明に成る時・・・一大事と言う時に成る。

大事・・・おおごとと読んだり、だいじと読んだりする・・・だいじな事・・これでイメージする、これも価値観で変わると思うが・・・日本人なら、本番・身が引き締まる方向性を感じる人も居ると思う。

おおごとは避けたい・・・しかし、だいじで有ると私は考えている。

之も教育だと私は考えている。

大事から逃げる、避ける、方向の価値観を与えるか???・・・又は、大事な事は、必ず行え、挑めという価値観を与えるか????

この部分が、最終的に、小事に対しては、簡単に取り組める、挑むと思わなくても出来る人に成るし、逆に成れば、小さな事からも逃げ・避ける傾向の人に成る。

しかし、何方も、己の大事が必ず来る・・・当然、己で解決できない・・・その時・・この部分を考えているかに成る。

今、若く、健常者で・・・何の己の欲の為に生きる・・・この様な生き方をしていても、何時かは、老いる、当然、家庭を持たなければ、他人様の手が必要に成る。

先に書いている、男手が必要な時・女の手が必要な時、等々の、違いが有ると思うが、勿論、差別主義者で無い人なら、同等に思えるかもしれないが、私は差別主義者なので、当然、感じて居る。

誰の手を借りる事が、安心できるか???・・・当然、この時点で差別主義者と言われると思う。

私は、妻の手が最初に成る・・・次が、息子達と思っていたが、母が言っていた・・・実子には親としてのプライドが有るので、意識が確りしている時は、避ける傾向に成ると言っていたが・・・私もその気持ちが判る様に成って来た・・その為では無いが、息子達の嫁と言う事に成る。勿論、それを受け入れる嫁とは限らないと思っているが・・・この部分も首都親としての躾だと思っているし、駄目な時は、姑親の私の自業自得と言う事に成る。

格好良い、生き方を目指し、実行している人達に、この様な事が出来るか???又、己が介護を必要となった場合・・・他人の何方様か判らない人に身をゆだねる事が出来るか???勿論、平等主義者で、性善説の価値観で、過ごしていたら、全ての人にゆだねる事が出来ると思うが、その様な人は、現実に居るのか?????極わずかだと、私の感覚では思う。

今は、家と言う観念が無い・・・何故、墓が、○○家に成っているか????等々に疑問も持たないし、考えるだけ無駄だと思う人も多い・・・・

人様のお陰で、育ち・・・人様のお陰で、生き・・・最後には人様のお陰で、看取られる。

その際、一番、手を貸してくれた人は????・・その中が一番、過ごしやすいと言う事に成ると思う。

人様のお陰で、生まれ生き死ぬ・・・その人様の中に入る、墓・・・・地域の墓も意味が有るし、当然、家の墓も意味が有る。

生きれた事に対しての、感謝と言う部分も有る。

しかし、現代は、家の人と言う育て方をしていない・・・何度も書くが、優秀な消費者を輩出していると言う事・・・・今しか見えない価値観に成っている。


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