捉え方が、価値観と私は考えている。
当然、色んな捉え方が有るし・・又、解る努力も必要だし、説明する努力も必要だと私は考えている。
指摘を誹謗と捉える人も居る。
何故、この違いが出るのか????・・・・私は先のブログに書いている、普通が有るし、その普通より、少し上と思い込んでいる人に、この傾向が強い・・・・
私は劣っている。その為に普通と言うレベルの人からでも、指摘を受ける。
問題点を言われると言う事・・・勿論、己が間違っていると思えば、反省し改善を考える。
又、問題点を理解できない場合は、詳しく教えてもらう為の行動は当然するし、私の価値観で、理解できないなら、反論も当然する事に成る。
勿論、私も人間・・・面倒くさい・つまらない事と感じたら、糠返事で返す場合も出て来る。
しかし、この様な振舞いが・・・何故か、己は普通・上のレベルと言う人に、行うと・・・逆らった・・・・俺に指摘した・反論した・・・最終的に潰してやると言う、振舞い言動に変る人が何故か、上で、優秀なはずなのに多いのが、私には理解できない。
不思議である。平等と口では言い・・・・私に指摘する事は善で・・・・逆に指摘されると悪この捉え方に、私は平等性を感じない。
私が、小学校・中学校時代も・・・平等や差別やを高らかに掲げ、日教組が強い時代。
学ぶ立場なので・・・理解できないので、質問をする・・・答えは、理解できない私が悪い・・・・丁寧に教えて貰った記憶が無い。
事業中なら、理解できている、他の生徒に迷惑と言う意味に捉えた私は、休み時間に職員室に行き、尋ねたが、基本はあしらい方は一緒だった。
その時に、平等等を叫び、振舞っている人は、人への配慮等の思いが無い人が多いと思う様になる。
一番驚いたいのが、数学のテスト・・・答えを出す・・この問いに、算数で答えを出した。
答えは有っていたが・・・教えられた方程式を使っていないと言う事で、✖に成った。
当然、質問をする事に成る・・・・教師側は、問いに答えと書いたが、当然、方程式を使った、式を書いて、答えを出す。之を求めたと言う・・・・問いが答えなら、どんな方法を用いても、出せばよいと私は行ったが・・・無理だった。
教師側は、数学の問題なので、✖に成ると言う見解に成る。勿論、数学の意味を調べる事に成る。昔の事で、正確には覚えていないが・・・私の記憶だと、問題に対しての解き方・・解き方が、数学だし、当然、色んな解き方が有る・・・一番・過疎な形・・が良いと成っている・・・・しかし、実社会の問題等々と同じで・・・色んな解決方法が有ると言う、学びに、数学は成ると言う、説明だった。
しかし、私が感じた、数学は、これが正しい、この方法以外無いと言う、一極方向への教育にしか感じなかった。
以前も書いているが、仮に、山の頂上で旗を振る、人が、皆、登って来いと言う指示をした。当然、色んな方向から、登っても良いと私は考える。山道を使う人も居ても良い、山道を使わない人も居ても良い・・・山道も沢山あるし、どれを選ぶかも、各自の勝手と私は考えている。
しかし、頂上で旗を振る人も人間である。当然、好みも有るし、価値観んも有る。
背負向けている側から、登って来る人等、見ていない・・・・
要は、山を登る、目的が、各自で違う・・・・・単純に頂上に立ちたいこの様な人も居る。
又は、頂上で旗を振っている人に、アピールしたい、認めて貰いたいと言う人も居る。
日本の教育は、力が有る、権力者に媚びる・・人間を創っていると私は考えている。
私の様に、旗を振る人に興味は無く・・・その足元に興味が有るし、当然、足元を求める為に、上に立つ人間に気付かれ難い方向で、登坂を行い・・・足元の地に手を早く付く事を目指す。
この様な頂上に立つ、人は、絶対に己の足元は人には渡さない・・・渡さないで、この場を目指せと言う・・・直ぐ側に来たら、当然、足場が狭いので、落とす方策を考える。
結局は、なだらかな丘陵の丘の頂上でも、頂上の場を明渡さない、人が、旗を振っている。
誰しも簡単に登れるが・・・頂上には立てない・・・・登攀できない険しい、ヒマラヤ等の山で無く、丘陵の丘さえ、登れない、険しい丘と成る。
要は、頂上で旗を振る、人の人間性・価値観とも成る。
又、頂上に沢山の人が、旗を振っていると言う場合も有る。その中に入れるスペースが有るか????無い状態でも、旗を振る人たちも居る。
無理して、登って、最後は蹴落とされる場合も出て来る。
又、頂上に立っている人の目的・価値観は????大事に成る。
人を殺す目的のスナイパーなら・・・どう登坂するか???・・・誰しも考えると思う。
しかし、最近は、何度も書く様に、ブランド品で身を固めた、優しい紳士に見える、スナイパーが増えている。
私の捉えている・・・普通と言う次元が、非常に怖い、次元だと私は捉え、感じている。
優秀な宿主を装った・・・究極の寄生虫・・・吸血鬼に見える。
誰も、近づこうとしない・・私の立場に成る・・・当然、それで良いと思っているので、身なり等、殆ど気に成らないし・・どうせ嫌われるなら、初めから、嫌われる格好の方が、楽に感じる。
私は、凹の底に立つ人間だと考えている。
落ちる事を望まない人が多いが、結果的に、転がり落ちて来る。生物の世界では、アリ地獄の主に成る。
しかし、落ちた者を食べるか、お前が住む場で無いと、持ち上げるかは、主の価値観に成る。
しかし、己の見栄より、命が軽い人が増えている。私の学友もその様なタイプに成る。
己の見栄とは????・・・誰に見せるのか????先に書いた、ブランド品で身を固め、紳士に見える。究極の寄生虫・吸血鬼に好まれようとしているのか????この様な主が求めているのは、究極は他人の命・・・・要は、命を奪われる、丘に居たと言う事に成る。
何事も、広くイメージする・・逆転の発想も大事だと考える。
転がれば、当然、低い所に、転げ落ちる。之を悪いと考える、イメージが有る。
しかし、水は高い所から、低い所へ流れる。之を悪いとイメージするか????・・当然の原理・原則だと思う。
水と言う物質は・・・原理・原則が直ぐに思い出せる。しかし、己と成ると・・・違う事に成る。
ビー玉を・・・丘の上に転がし上げる・・・頂上に平場が有っても、不可能に近い・・・又、頂上に平場が有り、偶然にもギリギリ、二つのビー玉を上げる事が出来た。三つ目は????この様な考えると、現実が見えるが・・・ビー玉が己に成ると、話が変わる。
何故、この様な方向に成るのか????・・・・要は、普通の平場と言われる部分に多くに屍が有るからに成る。
現状が怖いと、上を目指す。現状を怖いと思わなければ、良い事だが・・・何故か、恐怖心が有る。要は、向上心で上を望んでいる訳でなく、現状が嫌で怖いからに成る。
しかし、個の現状からの逃避が、何故、一方向なのかが解らない。
誰も歩いた形跡が無い、道を選べば、当然、屍等、無い・・・・恐怖心も無い事に成る。勿論、不安が有るが・・・恐怖よりマシだと私は考えている。
今、大きな問題に成っている・・・二極か・・・貧富の貞夫言われる、何が?????・・・心・命・・・・違う、お金と成る。
要は、お金と言う存在が、貧富の二極を創っている。
本来、お金とは、汗を流して手に入れた価値に対しての、評価・・・昔は物と成るし、当然、物と物との交換、物々交換・・・ただの紙切れの、お金が、流通に革命を起こした。
今は、汗を流した価値でなく、汗を流さず、手に入れる部分が注視され、それが価値と成っている感じさえする。
要は、紙切れのお金と言う存在の、奴隷と人間は成ってしまった。
優秀な消費者が、幸せだと考える価値観を植え付けられ・・・それを信じ、辿り着けない頂上を目指し続けている・・・・勿論、足元は見られない・・理由は多くの屍が有るからに成るので、上を見続ける事に成る。
この状態が、幸せだと思っている・・・本当に唯物的には、物を得られと思うが、唯心的には、幸せと感じれているのか????・・・無いから、上へ上へと、己の欲の向上される。
勿論、共存等の思いは無い、己だけ・・・之に注視する。
完全なる、地獄図の様相に成っている。
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