2019年1月9日水曜日

分相応

私は、ブログによく分相応と書いている。

文は自分の能力等々に成る・・・

相応は・・・ちょうどつりあっている事・・・に成るが・・・
この部分が難しい・・・・

仮に、学力も分相応が有ると思う・・・・小学校を卒業しているなら、当然、小学校の学力を得ていると成るが・・・現実は、どうかは各自で違うと思う・・・

社会的に認識されている。普通で、事を考える傾向が有るが、現実の自分と成ると、この基準に当てはまっているかは、定かでない場合が有ると思う。

面白い現象が、先に書いた、学力を例にすると・・・小学校でも解ける問いに対して、小学校を卒業している人が、解けなければ・・・・私は有りえると考えているが・・・社会的には馬鹿と罵られる傾向が有る。
之が常態化しているなら・・・罵られたくないと、この部分を隠す方向に成る場合が有る。
要は、学ぶ機会を自分から、逃している事に成る。

仮に、義務教育を受け、卒業していると仮定すれば・・・当然、中学校の問いに対しても、答えられるはずと言う、認識に社会が成っている。

この様な認識が普通と成っているなら、小学校の問いに答えられない・・・・この場合、罵られても仕方が無いと私は考えている。

勿論、認識が本来各自で違う筈だが・・・社会の認識に準じた生き方を目指せば、当然、この部分でも出来て当り前に成る。

私は相応の、ちょうどつりあっていると言う部分に、疑問が有る。
その為に、分以下と何時も私は言い聞かせている。当然得られる部分に対して・・・・行動や努力と言われる部分は、分が無いので、当然多くの苦労と努力が必要に成る。

自分の分を知る、この部分は、人様の評価で、一番、悪い部分に分を置いている。

世間の評価で、一番下に置いていれば、後は伸び白が多々ある部分を伸ばす方向に成る。

之が、社会が言っている普通だと私は考えている。
自己評価ほど、曖昧な事は無いと私は考えている。

しかし、他人の評価・・・・・正直に自分自身を見せていなければ、その評価も曖昧に成る。署湯時期に有りのままを見せて生きて居れば、当然、正確方向に評価も向うと私は考えている。

仮に、自分の分を、知らず・・・間違った分だと思い込んで居れば・・・困るか???困らないかに成る。

先に書いた学力を例にすれば・・・大学も東大を卒業していると思い込んでいる人が、小学校の問いに答えられない・・・この状態に成れば????・・・・学力不足を嘆き、学ぶ努力に向かうか???・・・・・周りを巻き込み、この位は有りえると、学力不足を埋めようとしないか???・・・
色んな対応が有ると思う。

物事に対して正直に、愚直に邁進し続ける・・・・之が求めれれるが・・・最近は、この様な行動こそが、馬鹿な証拠・・・損する生き方と言う風潮まで出て来ている。

要は、虚栄を張って自分の分を大きく見せようとする、人が多い世界に成っている事に成る。

この虚栄に応援してくれている人を仲間と思い・・・正直に生きれと諭す人を、蔑視する流れを作っている。


競泳で創り上げた・・・・その為に、粉飾は当り前・・・・之で、本当に良いのか????

分以下の生活を心がける。之を最近特に大事だと考えている。

社会の風潮として、人を下に見る様な方向性が指示されていない為なのか・・・・略全てが歯が浮きそうなお世辞が、普通に成っている。

この様な言葉を世間の評価と勘違いを起こすと、分相応の生き方でも崩壊する。

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