2019年5月10日金曜日

明日朝の奉仕が出来なくなった。

明日、朝八時よりの村内の行事に、仕事の関係で参加が出来なくなった。

申し訳なく思うが、嫁に参加をしてもらい、出来れば、五男も参加させたいと考えている。

この事を、何時も伺う、バイク屋のオヤジに話していたら・・・お前やよく、するな~~と言われた。

私は???に成る。当然と思っているから、何故と成る。

日本国は、民主主義の自由国家・・・之が意味する事は、国・市・村等の部分にも私が責任を背負うという、意味が有る。
他人事で済ませる。之は独裁国家に繋がるし・・・共産主義的に成って行く・・・耳障りの良い、分担と言う言葉で、格差を作って行くことに成る。

この前提が有るから、自由と言う事に繋がる。

静菌の背負い方が自由だという事に成る。人各々、特徴が有るので、この部分まで平等としてしまえば、出来ない人も出て来る。
得意・不得意が有るという事に成る。

何度か書くが、世間で感じる、問題は、結果的に自分に責任が有るという事、これが民主主義に成る。

要は、個人レベルの価値観の集合体が、市だし・県だし・国に成る。

数日前、スクーターの修理をしていた時の、四男の友達の様な、振舞い方が、自由と言う訳には成らない事に成る。

子供が問題を起せば、当然、親が頭を下げる・・・之がリーダーの振舞いに成る。
同じことで、私の村が問題を起せば、当然、周りに対して頭を下げる事に成る。

この部分を広く考えられる人が、普通だが・・・私はレベルが低いので、家族・広くて村まで私の頭だと限界に成る。

他人任せという事は、民主主義でない事に成るし、若し、この価値観が命に刻まれていた場合・・・・民主主義が命で理解できない、事に成る。
以前、アラブの春を例にしたが・・・民主主義に成ると思えたが、結果的に、各個人が主体者意識が無く、傍観者的に、利が降って来るこれを求める、命が強ければ、民主主義は根塚無い。

簡単に書けば、責任を背負う、覚悟が必要と言う事だし、この部分が無ければ、当然、自由も無いという事に成る。

四男の考えの自由は、単純に書けば、子供の我儘と言う事、これを自由と勘違いしている。
責任を背負う覚悟が有れば、その場から逃げる事が出来なくなる・・・今居る場所を守り抜く・・・もっと強く書けば、徹して守る・・・之が有れば、当然、逃げるという方向には成らない。

私は、学歴も無いので、後悔もしている。もっと、学問を習いたかった。
しかし、劣っているが、その分での、責任は背負えるはず。

各自、各々の分に応じて背負って行く世の中、これが民主主義・・・理想の世の中と私は思う。

しかし、現実を見ると、民主主義を否定するような振舞いをしている人が、何故か多く見える。

人と共に生きる。同じ、ドブを潜る・・・この覚悟が必要と言う事に成る。

しかし、人も動物、楽で美味しい方向に、勝手に動く、だから、不味い、耳障りの悪い部分を注視する、癖を創る事に成る。

現代は、情報が氾濫しているが・・・どの情報を得るかは個人の判断に成る。

以前、メールが発達するから、FAXは無くなると言われていたが、情報を択ばれな、FAXの需要も厳然と残っている。

見る意思が無ければ、情報を得ない・・・それなら、何を見るか・・・この部分が、教育で決まる。

人は、人か???・・・又は、動物か???

この動物側に近い、命の人間を昔は外道と言っていた。

誰がために生きる。四男が解ればと思う。

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