2018年2月19日月曜日

リハビリ

朝一で・・・リハビリ・・・・

手当てをしてもらう・・・・気持ちが和むし・・・治して頂いているという、思いも強い為に・・・感謝の気持ちも高まる。

土曜日に少し、肩を無理した・・・・誰も手伝う者が居なく・・・結果的に、重い物を持つ、この作業で・・・・大変な思いをしたが・・・この行動が、今回のリハビリにどう影響しているか???・・・・之も、気に成っていたが・・・・荒養生が、良い方向に成っていたようだ・・・・

出来ない、出来る範囲・・・この考えも正しいと私は思う・・・・しかし、出来ないから、出来ない範囲で、この考えも有ると思う・・・・

出来ないから、当然痛むし・・・その行為で結果は失敗も当然と成る・・・・土曜日も結果的に、重い物は少し壊してしまった。目的が、物を大事に扱う、之だったら、失敗に成るが・・・・目的が、物を降ろすだったら、成功・・・・又、目的がリハビリに少しでも役に立つだったら、之も成功だったという事に成る。

私は、出来るなら、何も苦労も要らないし、努力も要らないと考えている。
出来る事を、当たり前の様にしていても、面白みも感じないし、又、その事に対して疑問も持たない・・・

単純に、何故・・と色んな部分に疑問を持てば、当たり前と思っている事も、論理的に説明が出来ない部分が多々有る・・・仮に、何故歩ける???・・・答えは多々有ると思うが・・・普通は疑問にも持たない・・・・

余りにも当然過ぎる部分は、疑問も持たない方向性が有ると言うことになる。

しかし、この当然と言われる部分も、各自のレベルで変わる・・・劣っていれば、当然な事も出来ないので、疑問を持つが、今度は、其れを答えてくれる人が、一杯居る様で、先に書いている状態なので、誰も居ない、之が現実に成る。

人は、結局、論理的より・・人の振舞い・行動等を通して学んでいる・・・・・この部分が多々有るし、疑問も抱かないで進んでいる事に成る・・・・しかし、一旦、何故と言う疑問を持つと、全てが疑問に成り出す・・・・・何故かは、答えてくれる人が居ない為・・・

この当然の事を当たり前と言ったり、常識と言って、答えを濁す流れが有る。

何も疑問も無く、社会の流れに準じ、問題も無く、流れている時は気付かないし、考える必要も無い・・・しかし、社会が作り上げている、当然・当り前から、離れた瞬間に、一気に多大な、何故が押し寄せて、人の精神状態を崩壊する事さえある。

この現象を知っている為に・・・社会の流れにしがみ付こうとする人も増えるのは、想像できる。

しかし、振り解かれた瞬間に、闇に落ちる感じさえ、人は受けると言う事に成る。

又、社会の寛容さ・・配慮等の、部分も、変な一流の憧れが、狭い方向へと向けている。

私のイメージでは、不思議な事に、広い平場が有るのに、少しでも高く・・又その頂点が凄いという妄想で、平場に、山を作り出す・・・・その山も高く高く、していく方向・・・・・色んな方向から頂点を目指すが・・・殆どは脱落・・・平場に、転げ落ちる・・・・

元々居た場所に戻っただけ・・・しかし、凄い劣等感が有る事に成る。

結局は、その山も優劣感を、与えるシステムになる・・・・優等感を得る人が極一部だし、若しかすると独りも居ないかも知れない・・・・先細りなるシステムを、何故好み、邁進するのか???・・・・・勿論、一つの競技として考えれば、良いが・・・・生き方、人生観まで、このイメージなら、世の中は怖い方向に進む・・・・

社会まではこのシステムとは私は不思議に考えている。

社会に求める事が出来ないなら・・・親族・加族が、この平場的、部分に成るが・・・・この単位の集団までもが・・・社会のシステムに準じてしまえば、心を休む場所は、自分の狭い部屋と言う単位に成る。

悲しいから・・・・人が生き難い世界に、何故か向かっている・・・誰が決めたか解らない、之が正しいと言う世界に向かって・・・

人として、生物としての当然部分を、考えずに・・・人は神に近付こうとしているのか????

私は、人は人だと考えている。失敗もするし、間違いも多々起こす・・・・

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