現代は、相手が見えない・・・この流れに成っている。
昔なら、地域・名字・一族等が解れば、凡そと言う範囲に成るが・・・相手の価値観等々見えていた。
しかし、この様な部分が差別に成ると言う事で・・・・見えない方向に成っている。
結果、人を知る為には・・・・仲人等の立場が必要に成っているが・・・この立場も難しい環境に成っているので、興信所等の、探偵と言われる人達が、必要に成るが、当然、その為には多くの費用が必要となる。
私は各々、常識が有り、又、それが常識の違いを作っていると考えている。
その為に、之が正しいと言う、常識を作り、それに向かわせる流れも有るが、その常識に順応できない人は?????・・・・当然、常識外の人と成る。異端児と成る方向に成る。
問題が発生した時に、相手の価値観等々が、大きく影響する。
問題が無ければ、知る必要もない・・・・
しかし、縁を結び続けると言う事は、当然、問題の発生リスクも増えると言う事に成る。
私達夫婦は、結婚を許さないと言う、親が前提に居たので・・・誰も当てに出来ないで、結婚生活を始めた、又、私の父の倒産も有り・・・その後、信頼していた、友達等々も、お産費用さえ、貸さないと言う、言動を見て・・・・己で、進むしか無いと思う様になった。
しかし、四男の場合、反対者は私だけ・・・・他の家族は、私を説得する為になのか、協力するから、四男の手助けをするからと、私に言っていたが・・・・
今は?????・・・・・
我一族に入れる・・・責任と義務が当然、発生して増える事に成る。
私は、差別主義者と家族から言われるが・・責任と義務が有るから・・・当然、居れる人を吟味する。勿論、私の力量に対してと成る。
三流の私、力も無い・・・この私が背負える、人なのか????・・・・しかし、その部分が見えない・情報も無い・・・・之で、人は大事だから、人間平等だから背負えと言う・・・言う方は簡単と思うが・・・・背負う方は、何も言えないのが現代に成る。
当然、私の力量の範囲と私は考えるし、それを差別と言われるなら、仕方が無いと考えている。
極端に書けば、一族に入れると成れば、先ずは五体を見る・・・その次に考え方・価値観等に成る。最初から、大病を患っている人を、一族に入れるとは、私の力量なら無理に成るので、私は拒否する。
しかし、この部分まで、平等でない、差別と言う・・・最終的には人の命を何と思っていると言う・・・
この様な家族の現状が、今の社会の現状なら・・・当然、今回の、感染病の拡大も、その病を患った人を、私が看ると言う、大勢の人が手を挙げる筈と思うが。
マスコミ等を観ていると、誰しもが避けたい、その場を逃げたいと、思っている様な報道が多い事が、不思議で成らない・・・
この方向性に強く、己だけは・・・と強く思う人ほど、一流や優秀と言う、方向性の様にも聞こえてくる。
言動に整合性が無いように感じる。
一族に入れた、人が、若し、病を患えば、当然、その責任と、対応・処置は、家長である私に成る。
その為に、五体が健康な人を望む、気持ちが私には有る。
勿論、素行が悪く、それが今後問題を起すと思うと、起さない様に、言うし、耳が痛いと思われても、言い続ける・・・当然、従って欲しいと私は思っている。
しかし、従ってくれなく・・・結果として、問題を起こした・・・この部分まで、現代は、家長の私が、背負う事に成る。
昔は、勘当・・・等々、言う事を聞かなければ、今後、背負う事を放棄すると言う、方法も出来たが、現代は、それも出来ない。
結果、誰も問題時を、背負わないと成る方向に向かっている。
昔は、子育ても、村と言う単位が行っていた。
結果、乳が出ない・・近所の母親の乳を貰って育った子も居た。
親が、その地域を不在にしても、子供は、村が看ていた。
今以上に現在苦の家が多い・・・又、学校等に行ける金銭的余裕もない・・・教科書も有料だから、先輩方のお古を使う・・・今以上に、一軒の家を見れば、貧窮な生活をさてていたが・・・・何故か、子沢山で、多々の子供が居た。
親以上に、近所の大人から、叩かれたし・・・怒られた・・・又、高齢者から色々な事を教わった。
親から、教わったこと以上に村内の人から教わった事の方が多い・・・勿論、生活の為に、親は必死に働いていたので、その様な余裕は無い。
近所の堀に落ちれば、当然、その近所のオジサンが飛び込んで助けてくれると思っていたし、現実のその様な、事は、多々あった。
医療機関にも直ぐに行ける環境で無いので・・・その場で、出来る範囲の処置をしてくれる人は多々居た。
部落対抗の運動会等々・・・我村の子供達と、村全体で応援してくれたし、期待もしてくれた。村代表と、参加側も誉と、責任感を感じていた。
要は、昔は、大勢の人が、子供に関わり、全ての人のお陰で、大きくなっていた。
今は・・・・何故か、この様な部分を遮断して、夫婦・親だけで子育てをする。之を求めているし、それが可能で、幸せで、誰しも出来る事なら、当然、昔以上に、福祉行政は整っているので、子供の数も多いはずだが、現実は?????
幼稚園・保育園等々は、昔は、お金持ちの子が逝く所だった。
当然、費用が高いと言う事・・・・庶民のレベルに成るが・・・・
この様なお金持ちが、村に人力をしない等々で、異端児のように思われていた時代・・・当然、子供の数も少ない、貧乏人の子沢山と言われていた時代に成る。
勿論、お金持ちの子供は、高級な玩具を持っている、羨ましいが、空の上の人的存在と思っていた。
この様な、人間は、人間で無いと、近所の駄菓子屋のオバサンが言っていたが・・・若し、この様な立場を幸せと思って、庶民がそれを目指したなら、当然、隣近所関係ない・村内の事知らない・・・等々の現実に成り、当然、そのに似合う稼ぎが有れば、生活も良いし、お手伝いさんも要るし、乳母も要るし、旦那んは二号さんを作ったりして、楽しく暮らせると思うが・・・
若し、この立場と勘違いしたら・・・当然、楽に成る部分は、直ぐに出来るが、キツク感じる部分は、出来なくなる。
家政婦を雇う事も出来ず。乳母を雇う事も出来ない・・・結果、子供を産めないと成る。
この現実の、社会が悪し・・・と成れば、私は、間違っていると考えている。
ドラえもんの世界で言えば、スネ夫の家や、価値観が裕福で、正しいと言う世界に成る。
その様な振舞いをしたいが、稼ぎな足らないと成れば・・・・子供
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