今日は、朝から、体調が悪い・・・・
事務所に篭っている状態だ・・・・
右腕が思う様に成らない・・・之が之ほど苦痛かとは思わなかった・・・
医師からは、車の運転を止められているが・・・嫁を乗せて、少しずつリハビリも開始している。
田舎で、車の運転が出来なければ、仕事に大きく影響する。
力は無いが、我家では大黒柱の立場に成る・・・・私が仕事が思う様に出来ない・・・この事は精神的に辛い・・・・
我家だけで、この難局も留める必要が有るし、其れが大黒柱の責任だと考えている。
最近は、事故等の罰則が厳しく成っている為に・・・・逆にその場を立ち去る人も増えるという部分も有る。
特に、この罰則が・・・立場が有れば尚更、問題に成る。
人は間違いを起すし、失敗もする・・・・之を社会が認めない方向に向かっている感じが私はします。
勿論、機械の様に、システム通りに動く、之を人間が出きれば良いが、人間には無理だと私は考えている。
この無理な部分が、問題と、罰則を厳しくして、システムに順応させる手段を取っているように見える。
この策が正しいなら、人の個性も認めない・・・画一したロボットみたいは人間を作り求めている事に成る。
今回の事故も・・・何度か書いているが・・・全体主義的発想で考えれば、人家族が苦労するか・・又は、其れを大きく広げるかの話にも繋がる・・・
人は失敗もするし、間違いも起こす、この事は誰かがその責任を負うことを意味している。
家族を考えれば、子供の失敗を親が背負う、之も当然ある・・・・・家族を広げて社会も家族だと考えれば・・・・他の家族の失敗を我が家族が背負う之も、有りえると思う・・・・
現実に道義的とうとう名文で・・・マスコミなど・・・大人に成った子供の起した事件に対して親の責任等々、不を押し付けている。
この様な価値観を持っているなら、逆に他の家族の問題も他の家族が道義的と理屈を付ければ出来るはず。
同じ家族だからと言う、動議を持ち出している・・・同じ日本人だからと言う道義を持ち出しても良いと思うが、其れは無い・・・・
結局は、人の足を引張ろうとする、自己本位の価値観から発している事だと私は考えている。
人が生活、動き続けているから、時代は進んでいる・・・・人だから失敗も間違いも起しながら進んでいると私は思う・・・
この失敗・間違いの部分を誰が処理するか・・・・本来は本人と成るが・・・・その本人が失敗と気付いていない場合が多いので、結果的に他人がする事に成る。
何故気付かないのか???・・・此処が教育だし、どのような価値観に成っているかの問題・・・
この人としての基本部分を、学ぶ機関が最近は無いのが問題に成っている・・・・
昨晩もバイク屋のオヤジや。その他のオジサン達で、この様な部分を離していた・・・親の教育と言われる人も居られるが・・・現実には子供は社会に即している時間が長い・・・
又学校教育も、損得勘定に長ける、人を作っているし・・・その損得も尤物的部分しか、教えない為に、カタログスペックを高める方向しか、興味を持たないし・・・カタログに有る、不の部分は極力隠そうとする流れに成る。
又、自分の子供だけは等々を言われるオジサンも居たが・・・子供が結婚すれば、その相手の価値観が大きく影響し出す・・・親が好む人と結婚すれば良いが、一般的にはこの方向にはならない・・・
不から逃げる人を創り続ける社会・・・・・之が当然と成っているし、不を背負ったら、誰かに渡そうと考える、之が当然と思う世界に成っている。
不を背負う、又渡す人が居るか???又、育てているか???・・・・育てていなければ・・当然誰も不を背負わない世界に成る。
この事は、利有る人は、社会に溶け込めるが・・・逆に不が有る人は、社会に溶け込めない、排除される立場と言う事になる。
之が、益々、不を隠す方向性の人を作り出す・・・見かけ重視の価値観に成る。
この様な価値観が蔓延する社会で、一番得する人は・・当然力が有り、権力が有る人に成る・・・・その立場に冨が集中しだす社会と言う事になる。
之を、庶民が求めるように、誘導する輩が、現代では多々居る事に成る。
結果、話していたオジサン達も、死ぬまで、元気に健康に又、お金も含め、持ち続ける事を願っておられる・・・・・・・結局は後継者が居ないと言う事をアピールしてる事に成る。
私が子供時代は、老いたら・・・隠居の身分に成りたいと思っていた。今、隠居と言う単語も死語に成りつつある。
昔は、子供の時代、青年の時代、壮年の時代等々、年齢で立場や振る舞い等々の違いが有る、之が当然と思われていた。
しかし、最近は、子供の時代と大人の時代・・・この二極で考えている。
大人も、バリバリの現役の青年的、躍動感の有る、状態を永遠に続けることを求められている。
又、其れが良いと、マスコミ等々で年齢に対して若い人が良い等々で誘導を続けている。
規格が単一化し続けている中で・・・生きる、大変だと私は考えている。
規格に入らない人は・・・・・・不要な人と成る・・・・
不要な人を誰が、守するか???・・・・・その様な人も育てていない・・・・結果、死ぬまで、躍動感の有る青年で有り続ける事を求められているし・・・之が欠けると、妻からも子供からも捨てられる可能性が有ると言うことに成るし、この流れが当然と成りつつある。
本来、人の生きる、之はドロドロしたものだと私は考えている・・・・このドロドロした部分で、茂垣・苦しむ之を楽しむ為に、生きていると私は考えている。
楽しいと思わなければ、私も逃げたくなる。
逃げたり、止めたりする事は、簡単と言うより・・・・私の感覚だと恵まれているとしか思えない・・・
不を押し付ける、又背負わせる人が居るから逃げることが出来る。
之が無ければ、結果的に続ける事に成るし、その中で楽しみを探す事に成る。
この生きる事に対して、一般的や常識的にはと言う部分を持ち込む自体が私は解らない・・・
誰しも個性が違うし、環境も違う・・・この中で、如何生きるかは各自の知恵に成るし、価値観に成る。
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