2020年1月3日金曜日

人間と認められない・・・

私の生き方が、人間として認められない・・・方向に、世間が向かっている。

軽蔑される生き方に向かっている事に成る・・・・

悠々自適の生き方だと私は考えているが・・・現代の価値観だと、波乱万丈の生き方だと成ると思う。

平和の時代・・・自分の背中で背負える分しか背負っていない・・・之は悠々と私は考える。人様と共に生きる・・人様の「生老病死」も当然含んでいるし・・・人間として間違いも起こす・失敗もする、之も含んで・・・・物事を考えれば、自適な生き方に成る。

心静かに、過ごす・自分の思い通り・・・・之が悠々自適と成る。

要は、考え方に成る。

悠々自適に生きていると思えば・・・感謝できるし、幸せだと成る。

この部分は、人が評価する部分でない・・・己が如何思うか成る。

現代は、己の思い以上に、世間からの評価を気にする生き方に成っている感じがする。

当然、世間の評価は、優秀な消費者を、尊ぶ世界に成っている。

消費に繋がる優秀な消費者は、当然、物を売る側から見れば、お金を与えても、その方向に走らせたいと考えるのは、必然だと思う。

これが、現代の社会・世間と成れば・・・お金を産まない・・この様な立場は・・人間として認められない方向に向かう。

子供を考えても・・・子供は寄生虫・・親は宿主・・・世間が尊ぶ子供、寄生虫は????・・・親の稼ぎを、貪り、バラまく・・この様な寄生虫に、評価が良いし、若し、それを先に書いた様に、物を売る側が、お金を出す、この様に成る場合も出て来る。

貪る寄生虫を称賛する・・・貪られない努力の寄生虫は評価されない・・・

宿主の親の立場は、どの寄生虫を望むのか????・・・・当然、貪る寄生虫に対しては投資と考える事も出来る・・・・しかし、寄生虫が多くの対価を得ても、親が得れるかは判らない。

考え方・・・寄生虫の価値観も有る・・・宿主の価値観も有る。
立場で、大きく違ってくる。

優秀を考えれば、多く貪る事が出来る、寄生虫ならそれが優秀となる。多くを背負う、宿主なら、この方向が優秀と成る。

要は、優秀も、何に対してで変わる。

自然の中には、寄生虫に寄生する・・之も有る。

宿主も何かに寄生している場合が有る。

要は、本来、立場も限定できない筈である。

結果、時と場合で、結果が変わって来るのが人間だと私は考えている。
しかし、之を固定化する、流れが存在する。

考え様では、人間は、優柔不断で天邪鬼と私は考えているし、それが人間らしいと私は考えている。

しかし、この部分まで、認めない・・・人間で無いと、排除される方向に成るなら・・・人間は????・・・・答えは機械・ロボットに成る。

人間らしい、生き方????・・・之を確り、学んでいるか????・・色んな生き方が有る・・・それを、平等意識で看て居るのか????
自分の主観・思いで、見ない・聞かないと成るのが、私は差別だと考えている。

当然、色んな生き方が有る・・之は違いであり、差別でない・・・正しいと決め付ける価値観が差別に成る。
若し、私が言う差別感が有る状態で多々の道を選ぶ・・当然、答えは一つに成る。又それが常態化して居るなら、多くの人が、同じ道を選ぶと言う事に成る。
それ以外を選べは、異端児・天邪鬼と成る。

過去何度も書いているが・・・この価値観が、一極化すれば・・・神輿に乗る人は大勢で、神輿が壊れる・・・担ぎ手も居ないので・・当然、動かない・・・無と言う事・・・
これが、現実化すれば、当然、神輿の上で、担ぎ手を命令で任命する事に成る・・・
当然、その競い合いが始まる、成りたくない、選べる立場を目指す事に成る・・・これが強制を作って行く・・・・
又、最初から担ぎ手に成る人など、居ないと限定してしまうし・・・・若し、その様な人が居たら、環境等々の影響で強制されっという、認識に成って行く・・・
一神教的価値観の怖さに成る。

数年前、トイレの神様と言う、歌が有った・・・トイレの神様に成りたいと思う人が居ても良いと言う事・・・・

この選べる、自由が有る、之を自由主義だと私は、考えている。
私は、ゴミの神を目指す・・・・私は、ドブの菩薩を目指す・・・色々・・之が自由と成る・・・
しかし、この部分が一極なら、受付が一杯で受け付けられない・・・差別された、等々、競争が始まり、争いに負けたら・・・自由を束縛されたと成る。
何故、他を目指せないのか????理由は、正しいが一つに成るから・・・・


仮に、ドブの菩薩を目指す・・・当然、現代はその様な人は少ないと思うし、誰も成らないと思うが・・・・大勢の受付が有り、抽選に成った・・・・慣れなかったと、後悔が有るか????・・・・・一人の菩薩に対して、多くのそれ以外の人が発生する・・・
多く発生するが、その全ての人が、後悔もしない・悔いも無い、この様な事も有りえる。
要は、競争・争いは、一人に義理の勝者を作り、多くの敗者を輩出する。
これが意味する事は、競争を挑むなら、敗者に成る覚悟が必要と言う事・・・悔いや後悔が無いように、努力する事に成る。

キツイっ事が嫌・・・・無意味な事は、したく無い・・・之が現代だが・・今、テレビで箱根駅伝を観ている・・・・意味は無いが、テレビの前で、私はお応援している。

誉や栄誉・・・等々・・背負って走っている・・・勿論、それが背負押している様に見える。

人の凄さ、可能性を見ている感じさえする・・・何でも選ぶことが出来る・・・この自由が有る・・・凄い事だと思う。





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