今日は透析日、朝から準備で忙しい、午後には眼科への検診もある。朝一で腰の屈伸のストレッチを嫁の介助行った・・・真っ直ぐに脚を伸し座ることが出来ない・・・;腰の屈伸が出来ず硬直しているので、其れを伸すために嫁から背中を強く押してもらい屈伸の介助をして貰い、苦痛を耐え終了・・・ベットの上で行っていたので、この状態で放置され、日頃、枕元に置いている、携帯電話・コードレスホーンに手が届かず、身動きが出来ない状態に。声で嫁を呼ぶが返答が無い、20分程呼び続けたが、嫁の性格、聞えても無視していると考え、己で対処と少し・少し、体を動かし続けたが、先に書いているように、脚を伸して座れ無い為に上半身が自然と後ろに倒れてベットより転落、激痛が走るが仕方方が無い、その後も嫁を呼び続けるけど無反応・・・這うようにして、出入口に戸を杖で叩き続けて、嫁が何事と部屋に入ってきたが、彼女力では私を起す事も出来ない、結果、一時間ほど、ベットの下で待機、長男が仕事途中に来訪して、ベットに移してくれ感謝している。
一回目の退院後、お店の階段でコケたが自力立ち上がることが出来なかったと書いているが、そのレベルで無い、腰の動きと弱さに気付く事が出来た。鍛錬しか、回復の方向に成らない、本来なら寝たきりとの医師の判断・見解に成る。それより私には良い方向に進んでいる、当然、歯を食いしばるくらい辛く・痛いが負けるわけにはいかない・・・ブログ当初の「勝つ必要は無い・絶対に負け無い」ブログと書いている様に、この程度で負けては生きて居るという醍醐味を得る事が無いと思って居る。私は、勝ち負け論も嫌いである。生きる言う事は、闘い続ける事だと思って居る、誰と???我欲だと思って居る。この我欲が強いから、負け組を輩出続ける。この立場は当然、恨むし・妬む・この思いで駆け上がっても同じ仕打ちを負け組にしてしまう。無限に続く、地獄の自称だと思う。己の我欲と闘い、他のため、仕のために、仕戸は私の独断の見解だが、他の人に仕えると捉えている。この思いで事を成す言葉を仕事と私は捉えている。この部分が己の為、己の我欲の為等々、器の狭い価値観で生きて意味が有るのかと思うし、この様な思いでの言動は、私事に成る、同じ「しごと」と発音するが意味が大きく違う、何故、あえて苦労し、み止めて貰えないという方向に走るのか???現代は我欲に走る事が普通になっているので、人の生き様を見せるのも生き方だと思って居る。生き様、答えは死に様を考える事・・・何度も書くが今井来ている人は100年後程この世に居ない、どんな権力者でも、しいたげられた立場でも同じで有る。よく病気等は、お金を持っているかで違うと言うが、一回の病の苦しみで死ぬのと、数回の病の苦しみを獲て死ぬとの、何方が良いのか、結果は誰しも死ぬと言う事、どんなにお金持ちでも権力者でも死ぬ・・・此を解っている人間が何故、我欲に走るのかが私は理解できない・・・後継者、此を創れるのも人間、何の為に創るのか、私が思う、仕事が出来る人と思っている。今日は、仕事途中に長男が駆けつけてくれた。この余蘊人が居なければ、長時間動けない状態に成っていたと思う。全て自業自得、道生きてきたかが結果になる。今日は、妹も心配して電話してくれた。私の嫁の性格も少しは理解しているので、下手で尋ねるように上手に聞き出しているようだ、要は、私も嫁も仕事をしていない、所得が無い、しかし、昨年度の所得で税金等の支払いが発生する、その為に年金手続きを嫁が行っているが、年金制度、運用等を確り理解している人は殆ど居ない、その為に人の話を鵜呑みにして事を進めている。役所の詳しくは解らない、よくよく調べてこの様に厚生生労働省の見解になっている等々、窓口で言わないと門前払いになる。この状態に成って、関原は避けられないと、普通の年金の申し立てをしている。此も私の先輩には社会労務士も居るし、司法書士もいる。法律に詳しい妹も居るので、尋ねて進めろと言っていたが、嫁は肩書きが高い人を毛嫌いする傾向が強い、結果己の思いと言うより、見栄・都合で事を進みているが、行政が悪い・色界議員が悪いと、他に責任転換を続けている。この興奮した感情を落着かせるために、ブログを書く前に社会労務士の先輩に相談して難しいとの事だが、いろいろ調べてみると言われた、一週間の期間をくれとのこと無理でも待つことに成る。国民として当然知っているはずの常識を知らない、役所等では常識のように言われるが、聞く側は???状態・・・病で本人は申請も出来ない、行政は受付機関、申請が必要、その為に後継者等が必用に成る。勿論、今後は他人も後継者になる覚悟が必用に成るし、私は、数人の他人の後見人・後継者になってきた。此も核家族の弊害だし利己主義の台頭で、血縁関係でも無関係を装う結果、緊急事態等に誰も側に居ない、見殺しにも出来ない、何度も書いてる、医療機関も同意書が要る理由が、無関係を装う親族が、何か有ると、訴訟訴える傾向が高いとのこと、その為に緊急を要しない処置は同意書無しには施術はしない・・・今日は一年ぶりに大型のリスカウントストアーに伺い、車イスで来店、三時位ので来客数も少なく駐車場は余裕があるが、出入口は車で満杯・車イスを降ろして、車イスに移動、車と車との間のスペースが必用なので、障害者の駐車スペースの手前で待っていたが、県が支給する障害者を示すカード等も搭載していない車で埋まっているし、どう見ても障害者の乗るような車で無い、しかし、待つしか無いのでっm吊っていると、私達の車のカードに目がいくと、目を避けるように子供を急に乗せ急発進、嫁がバックで進入進入を試みていると、直ぐに前進で突っ込んでくる車、元気よく降りて発止って来店される、結果、広く空いている遠くの駐車スペースに止めて、ユックリと車イスに移動、来店することが出来た。感謝になる。
この地域、障害者が多い、障害者を証明するカードも出す事さえ忘れると言う、知能生涯・精神障害者おおいようだ。昨日は、免許試験場に伺っsたが、駐車場は満杯しかし、障害者スペースは確り空いていた。同じ地域性だと思うが、人は、場所で言動も変えるのかと唖然としているし、この様な生き方をして、どの様な後継者を創るのか想像できると思う。将来・未来の姿が予想できる。可哀想であるし、哀れでも有る。私は、嫁を確り幸せにする責務が有るし、家族を死守する責任が有る。余力が有れば、親族・地域ぐらいまでこの思いを広げたいと思っている。この心半ば、これからという時に、大病を患い、足踏み状態、一日でも早く、仕事がしたい、間違っても私事はしたくない。生きる意味が己だけと言う女々しい生き方、日本人で無いと思って居る。