私は、全て縁・関係性で事が進んでいると考えている。
本業が修理人なので、思う事なのか????・・・大量生産品で商品に差は無い・・・しかし、使用者・ユーザーとの関係性で・・・大きく変わる。
特に唯物的、商品は、カタログスペックや取扱説明書等々で、その商品の個性を正直に表しているし、それを好んだ・求めたから、購入し使用やユーザーという立場で関係を築き上げていくことになる。
又、カタログスペック等に偽りがあれば、公的に処罰される・・・その為に、物を解って、購入する此がユーザーになる。
しかし、何故か、ユーザーの考え方・捉え方、取り扱い方の違いで、寿命も変わるし、壊れる等々の不具合も変わる。
しかし、修理人として伺うと、全て商品が悪いと言われる人が多い、己の扱い方が悪かったという人は殆ど居ない・・・・
今、古いバイクや車が、想像もしない、高価格で取り扱われいる。
私も初期型、この地域では一号機のGS400を25歳まで持っていた、修理等を仕事にしている私、上手に維持管理して、今まで保持し続けていたら・・・新車価格の10倍以上の値打ちになっている。
要は、維持管理を出来るスキルは有っても、そのスキルを使うのを損と思ったから、己の能力を出し惜しみ、購入業者桟が、たまたま来られ、金額も忘れたが、邪魔になるので、タダでも良い程度で手放している。
しかし、時が進み、今、考えると、惜しいことをしたと思うし、己を肯定しようとすれば、業者人騙されたとなる。
要は、将来、価値観が変わるという事、当然、己の価値観も変化していかなければ、全てが周りが悪いという方向に向かう。理由は、負けで己は良い、負け組が己の姿と思っているなら、この様にならないが、己は凄い・神と思っている人が、損する・負を背負う・・・この様な事は無いはずだし、有るとするなら、環境・周りの人間に原因があると成る。
数日前、地域の幹線道路のカーブにゴミを一杯入れた、袋が落ちていた・・と書いているが・・・今日、その道を使ったら、ゴミが散乱し、道の横や堀に、強い風で、散乱していた。
真横に車を止められる場所で無い・・・カーブを過ぎた処に車を止め、その場所まで、歩くことになるが、今の私の体と、無理・・・勿論、気合いを入れて、這ってでも処理すると言う思いが有るなら、出来ると思うが、三流で、劣っているために、そこまでの事が出来ない・・・
日本国は一流で優秀な人が多いので、我が地域だけの問題と思うが、此が私の周囲の現実になる。
出来なくなって、後悔している。出来る時に何故、これでもか!!!と多々の事を、背負わなかった事に・・・
駄目な人間に成る、思いは有る、気付いているが、体を理由に出来ない広報の理屈を組み立てている。卑怯だし、哀れで、情けないレベルと思う。
今、世界は環境保全・保護に力を入れている。私は修理人なので、私の仕事の時代になると思っていた。しかし、何故か、新型が良いと、買い続ける人を、世界は求めている。その綺麗な理屈が、環境の為となっている。
環境????・・・誰の環境の為なのか???・・・・本音は金儲けの亡者の為の、人々を創り上げてると思える。
今話題の、二酸化炭素の排出・・・古いバイクを修理・メンテして乗り続ける。勿論、使用頻度は少ない・・・
この様な状況下なら、排ガス規制が無かった時代のバイクでも環境への負担より、新たなバイクを作る、負担の方が、大きいと私は思っている。
大事に使い、維持管理し、綺麗に保ち続ける、誰しもが欲しがる状態に成れば、資産・財産となる・・・歴史を感じる時間の幅が出れば・・・国家の資産となる。
木造建築の古い・・・日本国にある、当然、資産・財産として人々が見るから、観光地として、人がお金を落としていく・・・
要は、この様な状態に成れば、誰しも損得勘定で、徳と思うから、維持管理も頑張り出す・・・しかし、価値を見出すことが出来ない時期がある。この時、どの様に考えるかが、人各々の考え方になる。
一瞬の時間軸で考えるのか????・・・時間軸を長く広く、何処まで広げる事が出来るかもその人の考え方になる。
今の己だけの為なら、当然、100年後には資産・財産に成ると解っても、意味が無いと、処分する。色んな考え方がある。
要は、己の考え方振舞が、結果として、己に回ってくる。此が、お互い様という、考え方に成る。
昔から、類は類を呼ぶと言われる・・・近い価値観の人が集まるという事だし、この時が一番居心地を良く感じる。しかし、未来・将来は????
己が負の塊と化するなら・・・周りに居た同士思い込んでいた人達は、当然、己の価値観と同じなので、どの様な振舞をするのか想像が出来ると思うし、この想像も、怖い・怖いと思っているなら、その様な事に無い事を祈ることに成るし、当然、その祈りが通じるとは私は思わない・・・想像通りに成るし、成りそうに成る前にと、己で死を選ぶ人さえ出てくる。
私の学友も、この様にして命を落とした、友も居る。
その都度、何故、気付くことが出来なかったのか、何故、お節介と言われても、出しゃばる事が出来なかったかと後悔している。
この様な思いが有るから、己の思いを対話以外に発信できる事が出来る時代に成ったので、それを利用させて頂いている。
以前も書いているが、その様な事で、死んだ、友の葬儀に参列すると、仲間として、友に、遊んでいた、此も私の学友に成るが、故人の事を馬鹿にしている・・・此が許せないから、直ぐに喧嘩になるが・・・
親友や耳障りの良い、言葉で仲間の絆が強いと言い続けていた連中が、困った瞬間に、個人の能力のなさを馬鹿にして、笑う、此を多々見てきた。
勿論、同じ私も学友、同じ価値観を受け付けられていると思うが、何故か違う・・・その理由は、その連中が言うのは、馬鹿でアホの変わり者だからと言う・・・もし、此が事実なら、世間と言われる世界は、先のブログに書いているが、己に負の火の粉が掛からないから、耳障りの良い事が言えるし、もし、降りかかるようであれば、己は知らない、他人というスタンスを取るという事に成る。
人の縁も金次第・・・・三途の川も金次第・・・この様に言われるが、事実なのかも知れないが、本当にこの流れが、人の幸福・幸せに繋がっているとは私は思わない。
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