若嫁が孫を迎えに来た・・・・ホ・・・看るのも疲れる・・・
母が言っていたが、回転率・子育てのサイクルは速いほうが良い、理由は、孫を看ると言うこと、長男の子を看ていた事も有るが、その当時と今とでは己の体力の差が凄い、走る回る子に付いて行く事が出来ない、結果、一緒に遊ぶと言っても・・・私の体力に合う方向に向かうし、結果、孫から飽きられる・・・・
子育てで一番、必要なのは体力と時間・・・・それが取れる時が良いと言うことになる。燃し、これ以外の時に子育て、当然、子供のレベルまで選ぶ事に成る・・・条件が付けられていく・・・産まれてくる子も大変だ、有る基準を満たさないと、駄目だと言う事に成る。
此が、自由で幸福な人生の出発と言う事に成る。その様に思い込まされている。
しかし、現実は、出来ないし、思えない・・・だから、今度は社会のシステムの問題と責任を転換し、被害者ぶっている・・・被害者でも子育てしなければ、後継者は育たない、当然、後継者として育てなければ、後継者の輩出も出来ない事に成る。此は社会的構造の問題なのか????各自・個人の問題だと考えている。己の事、己で決めれば済む、他に合わせる事が必要で無いし、合わせる事が正しいと思っているなら、システムに不満も無い筈・・・私は、問題が有ると思うので、己で考えて事を組み立てている。
体力が有り・時間が有るときに、子育て・・・ある程度・社会的立場が出てきたら、社会人としての立場も出てくる。家庭人から社会人という流れ・・・この時点で、私の場合、親の介護等が始まったので、社会人としては、半人前だが、先ずは家庭人として一人前に成る、此を目指した。
結果が今で有るが・・・孫の守までは考えが及んでいなかった・・・寿命が延びる現代、当然として、起きること・・・想定をしていない事自体が、甘い考えをしていたことに成る。
私は、差別主義者で母親は家に居るものだと思っている。出来れば、専業主婦・子供の母の存在で常時居て欲しいと思っている。
しかし、現実は、夫婦共稼ぎで無ければ、生活が出来な世の中に向かってきた。誰がこの方向にしたのか、私は、男女平等と、女の手まで働き手として計算をし出したからだと思う。働き手が増える当然、お金が入るが、生活が出来ない・・・不思議だお金の為に、時間を使い、働いた結果、お金が足らない・・・誰が悲しむのか???母を求めている子だと私は考えている。
この動物的な部分を平等と言う言葉で覆い隠す・・・此が幸せに向かう道筋、一方通行の狭い道を示し続けている世界・・・当然、その道に乗れる人は限界が有る。
色んな道が有るし、色んな方向から、向かう事が出来るはずで有る。仮に目的地が一点でも取り組み方は多々有っても良い・・・しかし、此さえ一極に・・・息苦しい世界に向かっている。
私は、今年に成って、殆ど食事としてお金を使っていない・・・・・残り物か、かゆを食べている。
それでも生きて居られる・・・塩分も控えているので、味もない、一般には不味いと言うものを食している。感覚的には薬的な感覚で食している。
回りから何の為に生きている、死んだ方がマシで無いかとも言われるが・・・生きていること自体が感謝である。
私は、息子・後継者に、生き様を見せて死にたいと考えている。
歯を食いしばっているが、グッドで死んでいきたい・・絶好調で逝きたい・・・
大怪我もした、息も出来ない激痛で苦しんだ経験もある。色んな、経験をしたが、まだまだ甘かった、辛さの度合いが違う・・・治らない、悪化し続ける此を受入れる度量、私しには無い・・・それを今から学ぶ事に成る。受け入れる事が出来たなら、克服するのかも知れない・・・病とはそのようなものだと思っている。
目が見えにくくなっているので、他の感覚が増している。
0 件のコメント:
コメントを投稿