急に、子供が通っている、保育園から、呼ばれた・・・今後の方針を言われるとの事らしい・・・
要は、今回の件で責任問題が一気に表面化している事に成る。
責任が有れば、当然、義務も発生する。
本来、この様な部分は、誰しも解っている部分・・・以前書いているが、学校に預ける、親の責任放棄でない・・・・親の学校にお願いして、預かって貰っている・・その為に学校で何か有れば、それも私の責任と考えている。
世間的に、お金を貸す、貸す方も悪し、同罪と言われる。
同じ事だと私は思っている・・・・
その環境を選んだも、子供で無く、私に有る・・・その場所を選んだのも、当然、私に成るし、学校に預ける決心をしたのも私である。
当然、預けると言っても、相手も人である。人は、間違いも失敗も当然すると言う認識のもとに預けている事に成る・・・・
しかし、最近は、預かった方が責任の全てを担う、方向に成っている。又、預かって貰って、当然・責任も担って貰って当然と言う風潮まである。
以前書いているが、買う側も勝手と思っているなら・・・売る側も勝手と思っても問題で無いと私は考えている。その為に、買う行動でも礼を尽くす必要が有ると私は考えている。
私も、分を超える、責任を背負う、怖いと思う・・・・しかし、生き続けると言う事は、責任を背負い続ける事だと私は考えている。
勿論、分から大きく離れていれば、無理だが・・・・
しかし、最近の教育や価値観育成に、この責任等々を負う事は損という価値観を強く植え付けている。
結果、今ある環境は、責任の減らせる環境と思っているし、周り全てが背負ってくれて当然という、環境を望んでいる事にも成る・・・・
要は、この様な価値観の人が、親に多い、教育機関は大変だと思う。
少しでも問題が有れば、直ぐに被害者に成り、被害者意識で、責任者をつるし上げる・・・当然、組織も、自己保身が強い方向なら、現場の末端が右往左往する事に成る。
本来、子育ては、家族でする、親族の中でする・・・地域で行う、これが基本と思う。
之が出来れば、良いが、出来ない、難しいから・・・学校に預かって貰っている。と言う事に成る。
之が本来の親の立場と私は考えている。
逆に考えると、地域も違う・環境も違う、学校に赴任して・・・何処の何方の子かも判らない、子供達を教える事に成る。
この時点で私は、怖い・・・・それに、多大の責任等々を求められれば、頭がパニックに成ると思う。
我家にも、子供達が集まるが・・・多い時期十数人・・・この人数でも胃が痛むし、現代、何か問題が有れば、保護者が怒鳴り込む・・・この危険性も知って、見守る作業も、神経が疲れる。
勿論、中には何時も迷惑をお掛けしてと、堤ものを持ってこられる家も有るが・・・この方向の人も、どんどん減り続けている。
飯を食べさせ、お菓子を与え・・・無償の奉仕にも、怒鳴り込んでいる人が居る、之が現実に成る。
様な、捉え方に成る・・・・子供が大事、愛している、当然、己の手元から話す事は出来ないと思う。
しかし、子供も勝手に色々な所に行く・・・当然、徘徊するボケ老人と同じで、探し続ける之が保護者と思う。
之をしないという事は、保護者が信頼したという事に成る。この事は、何か有っても信じる努力が有るという事・・・又、何か有っても受け止めれる、心が有るという事だと私は考えている。
若し、覚悟も無く、信頼も無く、他人に預ける・・・出来る訳が、大事な子供なら、出来ないと思う。
私が、耳に入る、言葉で、疑問に思うのが、辛勝したが裏切られた・・・騙された・・・
この言葉・・・信用したなら、共に地獄の底までと言う覚悟が有る筈。
しかし、この様な言葉がまかり通るのが現代に成る。
今ある、現実は、当然、己も参加しての社会に成る・・・社会が悪いという事は、己も悪いという事・・・・
己は良いが、社会が悪い、この様に言う人が多い・・・若し、全ての人がこの様に思っているなら、構成している人は全て良い事に成る、その集団が社会を構成して居るなら、当然、社会も良いと成る。
私の様な異端児でも、社会にギリギリ属しているので、上の様に考えている。
当然、社会の中に確り居ると思っている人は、その責任感も強く感じていると思う。
しかし、当たり前の様に耳に入る言葉、全てが責任転換の言葉に聞こえる、之も不思議と思う部分に成る。
0 件のコメント:
コメントを投稿