差別は???と子供達に問うと・・「ダメ」「悪い事」等々の返答が返って来る。
私は、差別はの問いに「有るもの」と答える。
ダメ・悪い事と、無いものの様に、思って居る人達が多い事に成る。
差別はダメだ・・・特にリーダー的立場の人が、よく言う単語に成る。
しかし、現実は無理だと解っている。その為に、自分の周りに壁を大きく作り、他人との関わりを減らす方向に向かう事に成る。
昨日のブログには、人種差別が起点に有ると書いているが・・・
私は田舎に住んで居るので、村の違いで、区別が有るし、当然、差をつける事も有る。
之も差別となる筈だか・・・普通と私は考えている。
之もダメだと本当に言えるのか????
同じ子供でも、我が子と他人の子に、差をつけた・・・差別に成るか・・・私は普通と考えている。
自分の子供でも、兄と弟と差をつけた・・・差別と成るか・・・私は普通と考えている。
私の価値観の中心には、人も多々居る・色んな考えが有る、違いが有ると言う部分から、出発している。
争いを好む人も居るし、好まない人も居る・・・・之に対して、どちらが正しいかとなれば、それ自体が差別である。
医者が注射を打ってくれない、差別か????・・・健康なら必要は無い・・・
競争自体も差をつける行為・・・考え様では差別となる。
私が考える差別は、一つの方向に扇動する・・・一つの価値観、之が正しいと押し付ける、この流れが差別だと考えている。
何が正しいかは、人で変わる・・・之を、一つの方向から見て、判断し、正しいと押し付けて、それを扇動して人々をこの方向に向ける。之が差別に成る。
要は、事実に対して、イロハを追加して扇動する・・・マスコミも同じである。
勿論、個人の見解と成れば、個人の好嫌の部分なので、影響されないが・・・個人の肩書等で、信用させる扇動方向に向かうのが怖いし、この部分を差別だと感じている。
私は子供は大事だと思う、当然、出来る範囲で、面倒等看たいと思っている。
昔のブログにも書いているが、我家で見れば、子供、当然、騒ぐし、暴れる・・・被害を被るのは当然と成る。
子供とは、その様な者だと私は理解している。
マスコミ等で、子供が大事等々、能書きを言われる人達は、分も高いし、経済力も高いので、当然、我家を開放して、子供達の面倒を看ておられると、想像も出来るが・・私は出来ない、逆に、外部を遮断しているイメージに成る。
優秀で一流の人は、指図するだけで、その行動は、三流市民がすると若し、思って居られるなら、差別だと私は考えている。
一番怖いのが、見えない差別に成る。
品が良い、差別と成る。
柄の悪い、差別は、個人の主観だと見えるが・・・品の有る差別は、気付かせ難い
私は、厳然と、差が有る、人に合わせた対応を考えるので、人の数、振舞いが変ると言う事に成る。
之を優柔不断と言われれば、仕方が無い。
人から褒められている人に、指摘したりするので、変り者だし、人と基準が違う、これが差別論者と言われたりする。
要は、極論で言えば・・・自分の命と他人の命、同じ命である。しかし、差が有るように感じる。生物で見れば、我が命の、蛙の命・・・同じ命である。しかし、厳然と大事さが違う。
勿論、私を基準に考えてに成る。
又、一神教の世界で言えば、神の命と、庶民の命、私は同じだと思う・・・しかし、厳然と違う・・・
最初に戻るが、差別は有るものだと私は捉えているが・・・・今の子供達は、駄目、無いものと思い込んでいる・・・之が怖い・・・
この様な子供が、親も自分と同じ位、大事だと思っているか????・・当然、死ね程度の思っている・・・
見せかけの、差別反対者・・・之を多く輩出している事に成る。
結果、当事者感覚が無く、被害者意識で、差別を受けた、この感情が強い子供達を輩出している。
何が差別で、何が悪いのか????之も、確り教える事が大事に成っている。
自己中だが、差別主義者でない・・・この矛盾も感じていないと言う事に成る。
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