今回、私は普通と言う単語・・・余、認めたくない・・・・理由は使い方が問題・・・
私が思う、普通とは・・・人として普通と言う事・・・普通なら幸せと言う事に成る。
人は、この部分で普通で無いから、不幸せ・・・私だけ不幸・・・この私だけと言う部分を強く意識している。
勿論、私だけ良ければ、良いが・・・ここで言う良いは、普通より良い、人として普通以上と言う事に成る。有る訳がないのが普通だと私は思う。
釈尊の説話に、この様の部分が多々ある・・・之が日本にはお経として伝わっている。
私だけ、こんな苦しい思いをしていると言う、母親が居た・・・理由は、近い肉親の子が死んだ・・・悲観・悲しみ・・何も出来な状態になっていた・・・
母親に、その悲しみ、悲惨さを救う・・・その為には・・この世に生きている人に、肉親を亡くしていない人と巡り合うと、救われると説く・・・・・
母親は必死に、探すが・・・・普通の人なら、肉親を亡くした人が居ない、この様な人は居ない。色んな人が大事にな肉親を博している、事を初めて実感で感ずる。
結果、自分だけと言う、不幸の根源に気付く・・・
本来・普通とはこの様な事だと私は考えている。人だから色んな人が居るし、当然、人の手を必要とする人も居る・・・・抱き抱えなければ先に進めない人も居る。
この様な、事が普通だと思うし、当然、余力が有り、背負う事が出来る人も居る。
私だけと言う発想が、結果的に不幸を、飛散に向ける・・・逆に私だけが、富を得た場合、小さく保身の方向に向かう。
何度も書くが、孤立化が一番の不幸だと私は考えている。
勿論、十代後半の時、私も、この様な私だけと言う、悲惨感が有ったし、結果的にノイローゼになり、自殺まで考えていた。私だけが・・・・・当然、不幸・・・背負う事も不幸・・・背負うものに対して、私の責任でない・・何故???等々、背負う力が無い為に、色々な、理屈を付いて逃げる、結果的に一番悲惨な、孤立化方向に向かう。
この時つ使っていた、単語は普通だった・・・私が考えると言うより、物事から逃避する為の、単語・・普通は・・・に成る。
だから、人としての普通を知らない事が、結果的に不幸と言う事に成る。
時々「生老病死」と書くが・・生物・動物の普通の事柄に成る。
当然、人なら知っている事に成るし、理解している筈であるし、又、絶対に逃げる事が出来ない部分に成る。
この部分を、嫌だ、不幸だと言う考えが有るなら・・・生物は全て不幸を背負って生きている事に成る。
又、この様な部分まで、優劣を作ったり、勝敗を作ったりする人までいる。
優れ勝者になっても、最後は死が待っている。
最近私が危惧している部分が、この部分に成る。
何故、格差が出来るのか????有る分野で優れている人も居るし、音ている人も居る。その様な人の集まりが、社会である。
しかし、劣っている側を排除する、流れが強くなっている感じがする。
地域も同じで、強い地域も有れば、弱い地域も有る・・・この部分でも先に書いた流れが強くなっている。
大きく広げれば、国・世界に成る。
当然、小さな社会の家族でも、この流れが有る。
人として普通なら、卑屈に思う事はないと私は思う。
就寝の時間に成った・・・・
0 件のコメント:
コメントを投稿