我家は昔から、色んな人の駆込み寺状態に成っていた・・・逝った母が健在だった頃は、高齢者の相談窓口みたいな状態だったが・・・
結果として、親達や高齢になるという意味を、私は勉強できたし・・・・・何か行動を伴う場合は、母の代理として、私が処理していたので、行政等々の機関との、関わり方も勉強できた・・・・
母が亡くなった後は、高齢者への対応は、地域住民の立場でよくなったが・・・・それ以外の部分が残っている・・・・
今朝から、地域の女子高生が我家に来て、モゾモゾしている、何かが有った為と思うが・・・・行く場所、逃げ場所として、我家を選んでくれた事に感謝している・・・・
今、気晴らしと、嫁と一緒に、車で、マックへ買い物にでかけた・・・・・
近年、子育ては、地域全体で取り組む等々が叫ばれている・・・・・昔は、自然にこの方向だった筈だが・・・・・リーダーが叫ばないと出来ない状態に成って来ているためだと私は、危惧している・・・・
勿論、昔と違って、親が、叱咤したとしても・・・簡単に家を出る子供達が多い・・・昨晩も四男の友達が、四男がアルバイトの終わる時間に、集まってきて・・・・同じ高校の者は、嫁が四男と共に学校へ送ったが、一人の男の子は未だに、帰っていない・・・・
親の育て方といわれるが・・・・昔と違って、少しの叱咤でも、変貌する子供が多くなっている・・・・自由を履き違えていると思うが・・・・本能や感情をコントロールできる之が人の筈・・・・しかし、その人への勉強を行っている子供達には之が、難しい・・・・
非常に幼さが、残った状態で・・・大人へと進んでいる感じが私はします。
結局、矛盾や疑問を感じ、其れに対して、模索努力を子供時代に経験していない・・・その為に、指摘や叱咤を、怒られた、蔑視されたと勝手に取ってしまう・・・・
何事にも順序が有るが、先ずは自分と勝手に思うし・・・その自分の本質も、本能や欲、この部分に支配されている為に、如何しても動物的な損得勘定が表に出だす・・・・
優先される、之を望む方向に進むし、之が正しい、幸せの基準とまで成る・・・・
之を考えると、単純な言葉で、我侭となるが・・・・之が人の権利だと勘違いを起こす方向にも成る・・・・
以前・ブログに書いているが、母が言っていた、色んな守をしている、之が最低限の人間としての定義と言っていた・子守・親守・家族守・地域守・親族守・・・・・最後に墓守が有ると・・・之を確り自覚して、出きる様に努力する・・・このレベルが、庶民レベル・・・
この事を、今、私の子供達の世代に、話しても・・・頭の中が????状態に成る・・・・
架空の妄想を基準として、それに適っていないから、今の環境が悪い等々を思っている子供が多くなって来ている・・・勿論、若い時はこの矛盾等々の疑問が出る事は正常だと思うが・・・現状に潰され、環境が悪いと人への責任転換をする能力が長けてきている感じがする・・・
愚直に、自分が変わり、変化させると言う、気合が有る、若者が減り続けている・・・・
全て回りに、従っているが・・・結果が自分に不利となれば、その責任を回りに押し付ける考えが蔓延しだしている・・・生きる事が、単純に成りつつある・・・・
考え様では、家畜的、生き方・ペット的生き方を望んでいる・・・・・飼い主が大金持ちで、整った環境で生きられる之を望んでいる事になる・・・・
之を自由と勘違いしている・・・・・・・
若い時に、何を学んで来たかになる・・・・・現代は一杯の情報が有るので、其れを選べる、自由も有る・・・・よくよく、吟味して、学ぶ事になる・・・
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