感謝の表現に成ると私は考えている。ありがとう・すみません等々の言葉・・・
しかし、最近は、負けた、負が有ったる立場が、使う言葉と思っている人が増えている。
車で、譲って、通しても、挨拶等々しない、顔も向けない人が増えているし、何故か情勢に多い・・・・
少なくとも心は無いが、会釈程度でも何故出来ないのか????・・・私は不思議に思う。
以前も書いているが、人の親として、母親がこの様な振舞いをする人が増えている感じがする。
子は、親の姿を見て、学んでいる。
子供に何を見せるかも、親の責任だと考えている。
人差に頭を下げられる人を私は育てたいと考えている。頭が低い意味を、親が見せて教えるしかないと考えている。
昔から、嫁を貰うなら、親を見て選べと言われていた。
親の育て方の結果が、子供に成る。
要は、子供が巣立つと言う事は・・・親の有り方、姿を世間に見せている事にも成る。
この部分が、今では言われないが・・・家の恥・一族の恥等々と言う事にも成る。
名字には、己を戒める・・・ものが有ったのが昔に成る。
私は、古いのかも知れないが・・・同じ名字で、人様に迷惑を掛けたと聞くと、何故か心が痛む・・・・明治時代に名字を名乗れるようになった人も含め・・・何かの縁が有るかもしれないと私は思ってしまう。
別の視点から考えれば、外国で日本人が迷惑を与えたと聞くと、同じ様に申し訳なさや責任を感じる。
この部分が無ければ、国の意味も無いし・・・名字の意味も無いと言う事、単に名称と言うだけに成る。
この様な考え方も、差別主義者の私だから言えるのかも知れない・・・・
本来、今はオリンピックの時に成る・・・私は、日本人として、日本人が活躍する事を期待しているし、願っている。若し、一等賞に成れば、当然、誉と感じる。
勿論、参加者皆が、活躍してほしいが、私は厳然と優先順位が有る。
命に係わる病なら、仕事より、優先だが、命に係わる可能性が半分と成れば、私は仕事を優先させる。必死に生きている人間は、足を止める事は、死を意味している事を体が知っている。
命が大事だとは、簡単に言える・・・しかし、命を守る事は難儀する。守る立場は、命を奪ったと言われる立場にも成る。
之が解るから、私は死守と思っている。守る事は命がけと考えている。
命を削って、生きている人が居る、之が解るから自然と頭が下がると私は考えている。
何故、自然に頭が下がるか、要は尊敬しているからに成る。
何を尊敬できるか????・・・この部分が教育に成る。
私は、息子達にこの部分は、確り教えて来た。
勿論、効くかは解らないが・・・・
親として、子が聴くかは別で、言い続ける事が大事だと私は考えている。
何度が書いているが、30歳を超える頃から、頭が一気に明快に成る・・しかし、何も頭に無いなら、それ迄、価値観で一生暮らす事に成る。
要は、頭に多々の引き出しを作っていれば、それを利用できる、能力が出た時に大いに役立つし、人生観も一気に変わる可能性が有ると言う事・・・・
人は、変われるか????之は、それまでに得た、知恵の量だと私は考えている。
必要に成る前に、確り、知恵を得る、之が若い時の大事な部分と私は思っている。
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