逝った母が言っていたが・・・「自分らしい」・・・・この意味を母は、各々背負っている使命を解った上で・・・・と・・・言っていた・・
「各々背負っている使命」・・・・・各自 背負っているものが違う・・・勿論、背負っている為に、降ろす事も出来る・・・しかし、使命と取るなら・・・・降ろす事も出来ず、イメージは悪いが、宿命・業という事に成る・・・・
イメージの良い、「使命」と意識すれば、その「使命は何かになる」・・・・
現代は、この背負う作業をしないと、「使命」を知らずに過ごす事も出来る・・・この部分が昔と違う、考、自己の自由に成る・・・・・・
昔は、「使命」=「宿命・業」という事で、逃げたくても逃げる事が出来ず背負う、使命が有った・・・
現代は、その部分も個人の自由意志に任されている・・・・
一家の「宿命・業」を子供が背負う、昔話にはよく有る話である・・・・
後継の物が、家族や地域・社会、等々の「宿命・業」を背負い、それを「使命」と気付き、努力・改革する美談、話も存在する・・・
しかし、現代の社会では、この背負わせる方向には成っていない・・・・気付いた人が背負う方向に成っている・・・
その為に、背負うべき「宿命・業」を 皆が各自の思いで背負い続けていれば、減り続けるはずだが・・・・何故か、増え続けている・・・・
昔は、気付かないで済んでいた部分が、現在では、無理して見ない、気付かない振りをする方向でなければ、目の前に沢山、落ちている状態に成って来た・・・・
高齢者の車の事故等も、この部分に属する・・・
誰かが背負う、この当然の事を、誰もしたく無いと考えている・・・・
母が言っていたが、人なら「子守・親守・家族守・親族守・地域守・墓守・最後に自分の守」之をしてから、初めて自分という部分が出来る、その為に、自分らしいという意味は、この様な多々な守を背負っている状態だと言っていたし、その状態で何かを目指す自由が有る、この部分が人の度量に成る・・・・
その為に、男が、スキップを踏んで浮れ、はしゃぐ・・・之を求める自体、女々しい生き方と言っていた・・・・・
結局、男なら、何人に傘をさす事が出来たかが、価値に成る・・・・
得る方向でなく、与える方向・・・・・
母の宿題は、私には難しく・・・不可能に近い・・・私は自己保身の動物としての本能が有る・・・・
しかし、動物・畜生の命で、与えられた一生を終えたくない、気持ちも有る
精神論や哲学論、的部分を今は軽んじて、自己の利益だけを求める、之が正しいと成って来ているし、人がこの方向に進むなら、集団・社会・国さえこの方向に向う・・・・
若し、この流れが、世界の風潮と成れば・・・・先の大戦前の世界に近付く・・・之を私は恐れている・・・人は其処まで愚かな生き者なのか、又は回避する知恵が有る良き者なのか・・・
人々が選ぶ道だし・・・・人の振舞い方で決まって来る・・・・
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