分も変化する・・・当然事だし、当然、発展する大きく成る方向だけと思いたい、気持ちが強かった。
しかし、今の病に成り、分が、下がると言う事も解りだした。
以前、己を屏風に喩え、広げ方が有ると、書いていた・・・・凄い、絵が描かれている屏風なら、当然、広げたいと言う思いが強くなる。
しかし、広げすぎれば、些細な事で屏風は倒れる・・・・凄い絵でも又、価値ある絵でも、広げるバランスが必要という事に成る。
又、その屏風の、芯になる。体の部分が、弱れば、当然、広げる大きさも変わってくる。この部分を私は想像もしていなかった。
今は、私と言う屏風が有る。勿論、三流の為に、自慢するような絵は描かれていない、しかし、畳んでいても、屏風は倒れる・・・ある程度に広げないと、自立出来ない・・・・この部分での分相応の広げ方は解っていたつもりだが、元々の、屏風の芯が、壊れ腐しだしたら、当然、広げる大きさも変えなければ、自立は出来ないし、これで自立出来ている間は良いが、人の支えが無ければ、断っていられなくなると言う事が、大病を患ってから、初めて理解できたようだ・・・・
全てに、後継者や若い世代の担い手が必要という事・・・現前の死が待っているなら、当然の事なのに、なぜ、今まで考えつかなかったのか、老いると言う事を、よく理解してない、又は見てきていなかったことになる。
確り、先人達の人生を見て学ぶ、これが生きる指針に繋がる。この部分が無いと、浮き草稼業で、耳障りの良い方向に、直ぐに流されていく・・・
人が、蛍以下になっているのかも知れない「こっちの水は甘いぞ」「あっちの水は不味いぞ」これで、人まで動く・・・・
愚かで有る。当然、私もその中に属している。
趣味や、人様の為に動けるときは、我近場の周りの事など気にならなくなる。しかし、この部分が出来なくなると、身の回りの些細な事に気になり出す。「亭主元気で留守がよい」と昔は言われていた。
要は、家の事は、嫁が仕切る、その為に、家の中の事まで、口出しされたくないと言う意味だと思う・・・今の私は、これが出来ないで居る。
嫁や家族に申し訳ないと思う。見て見ぬ振りと言うより、見えないで居るときの方が、良かったと思うが、今の私には、それが出来ない・・・
本当の意味での寛容さが求められている。負や損を確り理解し、背負える覚悟が必要という事・・・それが三流の為に、出来ない、情けない人間だ有る。
勿論、背負える、力や可能性が私に残っているなら、無い勇気も出せるが、今は、その部分も無いし、今後は減り続ける、これが解っていて出来るのか???無謀な覚悟の必要に成る。
どうせ、死ぬ身と思えば、問題も無いと思えるが、その思いに成らない、弱い自分が居る。
どうすれば、寛容さが身に付くのか、やはり、一流や優秀と言うレベルに成らなければ、無理なのか????
自信は無いが、必ずその立場に成らなければ、人生の幸福感を得られることは無いと思う。
卑怯者の私、己の命が勿体ない、大事だと思ってしまう。これが、足を縛っているようだ・・・・
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