家族の中で、差を埋める・・・之を行う立場は????・・・本来、家族各々がに成る。
勿論、人間だから、出来ないと場合も有る・・・その為の集団ともいえる。
一神教的、価値観だと・・・余裕が有る立場・・レベルに、達しない人達を、どの様なスタンスで、イメージするか・・・・
今の立場・レベルが普通、普通に達しない立場が・・・この立場に来る事を応援する・・程度の価値観に成る。
勿論、余裕度が多ければ、手を差し伸べろ的、意見も出て来るが・・・基本は、己のポジションが普通なので、この普通に達するように、何故、努力しないのか、このレベルを目指さないのかと、疑問も持っている。
しかし、この普通と言う立場も、現実は、多々の人達の汗で、担ぎ上げられている神輿の上だと解っている人も居る。
要は、神輿の上に、多々の人の許容度が無いと言う事・・・・応援していた立場が、今度は、神輿から転げ落ちる、危険性を感じ出す。
数字的・数学的に・・・・100人のレベルの平均が仮に50と成れば、今まで100のポジションに居た、立場は50落とす事に成る・・・之を容認できる人は、殆ど居ないと私は考えている。
しかし、之が平等と、信じている人も居るし・・・平等が出来ない理由は、立場が高い人のエゴ・利己主義が問題と考える人も居る。
社会主義的考えに成る。
誰しも、自分の趣向・好みに反する事をすれば、苦痛を感じる・・・私が価値観の多様化が大事だと言うのは、私は嫌いだが、それを好きと思える人が居れば・・バランスが取れるからに成る。
要は、価値観の違いで敵対するでなく・・・共栄方向に向かう、可能性を信じているからに成る。
何度が、書くが、神輿の上に乗るのが、好みな人だけの、集団なら、誰が神輿を担ぐか???当然、立場が弱い等々に成る。担ぐと言う行為に、喜びを感じない人達が担いでいる事に成るし、最終目的は、神輿に乗る、之に成れば、一度乗った人達は降りようとわしない・・・・
仮に、担ぐ事が好きという人達が多々居れば、その様な争いも減るし、無くなる可能性が有る。
一つの正しい、価値観が、全てと言う流れに、私が疑問が有るのが、この様な理由に成る。
家族内を見ても・・・現代は、何故か、価値観が一つの方向にむかっちる。要は、神輿を担ぐ、この様な下働き、後片付け等々に、対して興味を持たないと言う流れに成る。
要は、負と感じる部分からの逃避に向かっている。
当然、家族等々の集団の維持が、難しくなる方向に成る。
この部分からの逃避が有るから、一人にこの部分の処理を・・要は責任者と言われる立場に、全てが乗る方向に成っている。
結果、家族を持つ、事が、難しくなっている事にも成る。
私が、経験した、昔は、父親は大病・母は知恵が無い・・・しかし、子沢山で、子供達が、新聞配達・等々で、稼ぎ・・・立派な大人に成ったし、その親も、子供達が最後まで、看取ったと言う、家庭も知っているし。
裕福な家族で、二人の子供は、医大・等々に通わせ・・・医者に成った。
しかし、親元の、地元には、帰って来ないで・・・寂しく、亡くなっていた親も見ている。
勿論、色々有る・・・之と限定する事は出来ない・・・しかし、現代は、之と限定する、家庭像が有る・・・・その方向性は、私が昔知る、裕福な家族と成っている。
しかし、親として最後も、知っているが、親の努力に対しての報いが有ったか???疑問が有る。
同窓にも居るが・・・同窓会にも参加しない・・・親の葬儀も、内々で行い、全く、情報を得ずに、亡くなったと知ることに成る。手を合わせる場も提供してくれない。
人とは、欲を貪る、物と捉えるなら、それでも良いが・・・私は少なくとも、その親に対して、恩を感じていたが・・・・
之を周りに話すと、時代遅れの考え、現代はクールだと言われる。
之が意味する事は、ドンドン、人間性的、人間味が無くなる、冷たい機械的、人間が増えている事にも成る。
之を、人類は目指しているのか????・・・之が、幸福の形なのか???私は疑問が有る。
人間の器と私は言っているが・・・心、命を広げて行く方向が、進化と私は考えている。
五感に感じる、世界観の広がり・・・之は文明で可能に成っているが、人自身の心・命は、保身・方向に進んでいる。
勿論、私も年齢的・又は、五体の不自由度から、人様より、己と言う、命が出だしてきた。
子供も、育てた・・・社会にも貢献もしたつもりである。
己を殺して、人の為と、対価を求めず、動き回った事も、何年も有る。
それを観ていた、子供さえ・・・父親はバカだと言う、価値観を何処からか得ている。
親として、子供に教えたい、学ばせたいと、我身でも見せて来たつもりであるが・・・結果は、私以外から得た、価値観に傾いている。
今の、反省の部分は、環境を与え過ぎた・・・勿論、楽な環境に成る。
苦痛と言う、部分が浅いと言う事・・・浅いから、己で終わっている。
以前も書いているが・・・良い環境が、良い後継者を育てるとは限らないと言う事・・・
我家に、座敷犬のリンが居るが・・・この犬の立場で、生まれ、生きた方が、幸せと思えるかもと、今は考えている。
飼い主の、私が、何時も様子を観察しているし、その都度、対処を行っている。
五体不満足方向に向かうと・・・何故か、飼い主を求めだす様だ・・・しかし、その時点で、飼い主を育てていない事に気付く・・・・己の飼い主は????・・・・・・
スフインクスの問、生まれて四つ足で歩き、二本足で歩く、最後は三本足・・の問に、答えは、人間・・・
私も人間と言う事・・・人様の手が恋しく感じる時が来る。又、必要となる時が来る。
当然・・飼い主と言う、後継者を育てたかに成る。
私が育てた、後継者が居れば、何時か、飼い主の立場も、広がり出す事を願っている。
今は、我子に役立ちたい、程度・・・次に嫁に薬立ちたい・・地域に薬立ちたい・・等々に広がって欲しいと願っている。
己以外に役立つ、喜びを知れば、幸福感の価値観も変わって行く。
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