私自身の、操作の考え方の変化を考えている・・・・
何故、初期のRCドリフトの取り組みの時の、今考えると無謀な操作を求めたのか????
よくよく、考えたら、ストレスの解消的、操作の感じがする・・・・・強い安定を担保して、無謀な操作をする・・・・・四男が、バイクを乗っている状態と同じ感じ、バイクを動かす訳でもなく、アクセルを無謀にレーシング・・・・・四男、曰く「ストレス」の解消に良いと言っていたが、このレベルという事に成る・・・
車の作り方は、怒が付く方向のアンダー志向・・・・・この動き難い車を無謀な操作で振り回す、勿論、RCの為に、怪我もしない為に・・・・・激突、等々、当たり前的な走法だったと今は考える・・・・
しかし、人はストレスの解消が、必要・・・・何に求めるかに成る・・・
危険性・・・ギリギリを求めている・・・・無謀さを受け付けるシャーシにしても、そのバランスがギリギリだからストレスの解消になっている・・・・
ギリギリが、ストレスの解消とすれば・・・・安定した方向にすれば面白くない・・・しかし、安定が大事だとは解っている・・・・・安定した走りでギリギリ感を求める・・・この難しい部分が初期の、考えでは出来なかった・・・・
結局、安定した走りになれば、一人で走っていても面白みも無い・・・・コースを三周すれば飽きる車に成る・・・・・
このバランスを、仮に、車のアンダーを消す方向に向けると・・・・・・勿論、無謀な操作は出来なくなるが・・・・車に合わせた操作が必要に成る・・・・その中で、ギリギリ感が出て来る・・・
勿論、操作に慣れてくれば、面白みが減る・・・・そのタイミングに又、アンダーを減らす・・・この繰り返して、今のテック・コンバが出来た・・・
勿論、発展途上で、今以上にアンダーを消す努力は続けたいと思うが・・・・
結果、操作も無謀から慎重・・・・操作の大きさも、大から小へ向かっている・・・・・
しかし、この操作が、ギリギリ感を無くすかと言えば・・・・私の場合、逆にギリギリ感が増している・・・・
その為に、一人でコースに伺い、練習したいという気持ちも出て来るし、二時間永遠に走り続けても飽きない・・・・・・・
人を頼らず、車と操作者だけの環境でも楽しめる車に成って来た・・・・
勿論、何を目標にしているかでも変わる部分・・・・・
異端児の私の場合、人を当てにする訳には行かない・・・その為に、先ず自分と車だけでも楽しめる、車作りになる・・・・
何処に趣旨をおき、目的にしているかで変わる部分・・・・・
スピードに趣旨をおけば、結果、競う相手が必要に成る・・・この様に形での優劣を求めれば、結果、第三者が必要に成る・・・
勿論、ドリフト競技と考えれば、優劣を求める・・・・しかし、先ずは基本、人と競う前に、自分と車との勝負がある・・・・この部分を確り、学べば・・・・・その後の人との優劣も謙虚に受け入れることも出来るし、反省・感謝に繋がり、その後の成長の糧にもなる・・・
しかし、直ぐに操作できたと勘違いして、人との優劣の世界に入れば、人を恨んだり・環境を恨んだりの方向に成る可能性が有る・・・・
しかし、最近は即席で操作を覚え、それが正しいと勝手に思っている人も居る・・・結果、他の価値観を認めない方向に成る・・・・
この宗教的、観念が、少し私は悲しいと考えている・・・・
対立より学ぼうと努力する・・・学んだ上で、自分の感覚で選ぶ・・・・之が個性だと思う・・・・
私も無知の為に、色々、学ぼうと努力している・・・その行動は、無知だから出来ると考えている・・・
「聞かぬは一生の恥、聞けば一場の恥じ」この考えが大事だと、考えている・・・無知を自覚し、この無知を埋めようとする、之も人だから出来る部分と私は考えている・・・
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