末子の五男が・・・出社して行った・・・・自転車で駅まで・・駅から自転車で向かうと言っているが・・・・
私が勝手に決めていた・・・責任・義務の部分で、我子を全て社会人にする事・・・・私自身が、劣っているので・・・・社会に対して貢献が出来る子を育てる之が私の夢だったし、最低限の責任だと思っていた。
これも考え様では、後始末に成る・・・両親の後始末も、当然、未だ終わっていないが、父の四十九日法要を済ませ・・・後始末を続けることに成る。
この世に生まれ、人様のお陰で生きられる。その恩・感謝に対しての後始末が当然あると私は、考えている。
子育ても、色んな人のお陰で出来た・・・・その恩や感謝に対して、当然、返すと言う後始末が有る。その一つが社会人として確り貢献できる人として子を育てる、この部分の当初の責任が果たされたと、肩の荷が少し降り、感謝している。
共存と言う意味には、共に生きる事だが、生きれていれば当然、色んな事が有る。その部分も共にと言う事に成るし、共と言う事は、学びたいと言う人に対しては、教えたいと言う人が必要に成る。
劣っている人には、当然、バランスを取る為に優秀な人が必要に成る。
これが、滞り無くなっている社会が、共栄の社会だと私は考えている。
間違っても、優秀な人だけの世界が共栄とは私は考えていない。この様な価値観を持っているなら、これこそ差別と言う事に成る。
差が有るのが、生物であるし、人間である。その差をどうバランスさせるかが、集団で生きる人間の知恵に成る。
劣っている人が居るから、優秀な人が必要と言う事だし、優秀な人の存在意義に成る。
優秀な人は何故いるのか・・・劣っている人が居るからに成る。
私は親だが・・・子を居るからに成る・・・私は爺だが・・・孫が居るからに成る。
私は夫だが・・・・妻が居るからに成る。
要は、人様が居るから、己の存在意義が有ると言う事・・・当然、その人様に感謝できなければ成らないと思うが・・・その様な振舞をしない人も多い・・・何故か????
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