息子達に言っている、言葉である。
「郷に入れば郷に従え」しかし、郷の将来を未来を考えた行動が大事・・・
己の住む場所・・・私は郷と思う・・・地域の中で生きるなら、地域に従う事は、基本と考えている、勿論、振舞い等々に成る。
しかし、己の理念・哲学は、曲げる必要は無いと考えている。
当然、解って頂く為には、それなりに努力も必要に成る。
己の理念・哲学等を相手に押し付ける事でなく・・・解って頂くこれが大事だと思う。
私もこの地に生まれ、生きている・・・この地と言う郷の中で生きている。郷に従うが、当然、己が有るし、己を郷の人達に知って頂きたいと努力をするのは当然と考えている。
当然、全てを従う事は出来ない・・・その代わり、出来る部分は全力で関わる。
私も、個性が有るし・・郷の風習に疑問を持っている部分も有る。勿論、私が無知の為と思い、訪ねて回るが・・・殆どが昔からの流れと言う言葉で終わる・・・
要は、誰も趣旨も理念も無く、続けて来ていると言う事に成る。
それなら、事柄の趣旨や理念を少し、現代にマッチした方向に変える事も可能になる。
地域活性化の為、地域交流の為等々、趣旨に加えれば、捉え方も変わりだす。
以前、若い時、青年団に属していた・・・村祭りの為、青年団が準備する。
当然、田舎では抜銭と言う・・徴収金を、各家から頂く・・・
そのお金の趣旨は、青年団の飲み食い・村の重鎮の人達の飲み食いのお金・・・
私はが思う、お金の使い道は、飲み食いが略全て・・・当然、それを言って、回収に回った。「村の、青年団・重鎮の飲み食いの接待に使う為の、徴収に来ました」と・・・・顔色が変わり、そんな金払えないと成る・・・・
しかし、漠然と、村のお宮の祭りのお金の徴収と言うと・・・ご苦労様ですと、頭を下げて徴収できる。
不思議な事だと、若い時思っていた。
私は、収支決算で無いが、お金の使い方を説明し、徴収する事が、本来の姿と思ってた。
要は、真実を伝える・・勿論、村民もその事は、解っている。解っているなら、尚更、言えると思った。しかし、現実は、違った。
人は、言い方等で、変わると言う事が解った。
その人に取って、耳障りが良いと、良い反応をされる。悪いと、悪い反応をされる。
同じ事柄でも、言い方で、全く逆の感覚に成られる。
勿論、言い方の順序も大事に成る。
先の文でも、徴収と抜銭とでは、意味は同じだが、感じ方が変わる。
何度が書くが、利他主義と言うと素直にそうだな~~~と思えるが、負己主義と言うと、誰が~~~と聞き直す。
この様な方法と言うより、習慣で、事柄が進んで来た部分も多々ある。結果、本来の趣旨や理念は無くなり・・・何の為と言う質問に、的確に答えられない状態に成っている。
戦後の教育・法律等で・・・個人主義に向かうのは必然・・・全体主義的な部分は、何故か悪いと教育されている。
この様なタイプの人に、昔からの方法論では、対応できない事に成る。
現代、地域の活性化・地域の繫がりの為と言っても、それを否定される人さえ出て来ている。
特にアパート等に住んで居られる人は、この場は一時の場と言う思いが有り、この地に染まる必要な無いと言う考えも当然ある。
しかし、この様な時代だから、特に、大事だと私は考えて、息子達に言っている。
上二人の息子は、家を建て、その地に根を下ろそうと考えている。
当然、地域事には出来るだけ、参加せろ・・・又、祭られている物には敬意を払い、最低でも頭を下げろ・・振舞いだけでも良い、心は違っても良いから、これが最低の礼儀・・・・
この様に教えていた。
最近、次男が、地域の方から、若いのに感心ね~~と言われたとの事、又、我が地域に若者が来たと喜んで頂いたと喜んでいた。
地域・郷に溶け込む、勿論、両方の努力に成るが、肝心な事は、その郷に入った側が、溶け込む努力が必要と言う事に成る。
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