2018年11月2日金曜日

正々堂々と生きる。

正々堂々と生きる、言葉だけを考えると、難しさが無い・・・・又、格好良くも思える・・

しかし、何故か難しい・・・何故か???

同じような言葉で、威風堂々と言う、言葉が有る。

全て、格好良いし、男なら尚更、憧れ的、思いが有るが、何故か難しい生き方に成る。

人は、間違いを起こすし、失敗もする・・・この部分が底辺に有る為に成る。

勿論、この部分が難しくしている事でも無い・・・この部分を有るのに、見栄等々が社会的に有るので、この部分が難しくしている。

人は失敗をするし間違いを起こす、この部分が底辺に有り、この部分から出発して、正々堂々と成れば、当然、失敗した時の対応が大事だと言う事に成る。

要は、頭を下げる之が出来るか、出来ないかに成る。

頭を下げる、この行為、振る舞いが、負けや恰好悪いと言う価値観なら、当然、人として、正々堂々等々は、不可能になるし、見栄・恰好が重視されれば、姑息に隠す、又、姑息の手段で、格好・見栄を張れる方向を目指すし、之が、格好良い生き方と、思って行き、最後は、正しい生き方と成る。

結局あは、正々堂々・威風堂々と言う、方向性から離れて行くことに成るし、この言葉自体からイメージする、振る舞いと大きく違った格好、振る舞いをイメージすることに成る。

父にこの部分を話すと、ヤクザの大親分的振る舞いが威風堂々と思っている。

又、間違い、自分の思いで無い部分を、鋭く指摘する、それで喧嘩する、之を正々堂々と思っている。

人間として間違いを起こす、この部分は当然、この当然の部分を、素直に認めて、頭を下げる、この生き方が本来は、正しい生き方だと私は考えている。

仮に、正々堂々と生きて、死を迎える・・・・姑息に生きて、身成りは超一流だが、死を迎える。
心に、生きた事に対して、感謝できる、方向は????と考えれば、答えが有る様に私は考えている。

最近は、我関せず、特に問題部分に対しては、この様な振る舞いをする、之が得だと思っている人が多い、気付いていても知らないふり・・・之が責任からの逃れる手段と使っている人が多々多い・・・理由は、頭を下げる、之を、損・劣っている証拠と思う人が増えている。

之が意味する事は、正々堂々等々無い人と言う事に成る、その様な人を信じる、私は無理である。本来、この様な人でも信じる之が必要と思うが、私は、そのレベルで無い・・・



0 件のコメント: