2019年6月22日土曜日

グローバル・・・・

最近の言葉、意味の捉え方が難しい・・

捉え方次第で、大きく、考え方も変わるし、結果としての答えも変わり出す。

仮に、何度も書くが・・・管理側の落差から捉えると・・・個性の多様化は問題と成る。
管理側の好む個性を求めるし、それが間違いを起さない正しい管理だと思ってしまう事にも成る。

要は、誰の思い、個性に合わせるか・・・その為の、力、力が有るから、それが出来るという価値観が有る事に成る。

私はこの部分が全ての、問題の起点だと考えている。

何度も書くが、勝てば官軍的、価値観・・・之が勝者側に有る限り・・・勝者が誰に成れども、変化は無いという事に成る。

色んな価値観が有り、色んな人が居る・・・之を前提にしての、考えに成るし、リーダーの素質に成るが・・・要は、包括できるかになる。

之を、私は、グローバルと考える。

しかし、問題が、リーダーが不在なら・・・当然、それを包括できる、リーダーを求めだす事に成る。

それが、結果的に、国と言う括りに成ってしまったことに成る。

昔は、貧乏な庶民は、国等に興味は無かった・・・・家族や一族、地域社会の括りの中で、生きていたし、それを包括できる、リーダーが居たし、それを認める、価値観が有った。

若し、自分の価値観・個性を包括できないと成れば、その集団から脱する事も出来たし・・・その事は、その集団を捨てたという事にも成る。

この部分が、大きい括り・・国に今は成っている。

国が、駄目と感じた場合、国を出る、捨てる、これも出てくる時代に成っている。

本来、色んな個性や価値観を、包括できる、リーダーが居れば良いし、価値観でも我儘・生物の道理や、人間としての道理を反する場合は、確りと、指摘できる能力が有れば良いし、その前に、それを聞く耳を持つ、人を創る事が前提と成る。

包括と言う事は、聞く能力に成る・・・この能力が無ければ、当然、リーダーにも成れない・・・・この能力が無いと解っていれば、駄目な自分が有るので、我慢の必要性も出て来る。

基本が無い・・結果、集団や囲いから、脱する・捨てた人が、今度は、リーダーと成れば・・・どうなるか????

同じ、考え、価値観を持った、人だけの世界・・・烏合の衆と成る。
この集団が、心地よいという事は、先に書いた、同じ、固定化された価値観の中でしか指揮が取れない、リーダーと言う事に成る。

要は、誰がために生きる・・・・之が生きた証に成る・・・結果的に、貢献に成るし、此の貢献度が、大事に成る

自分の為と、教え続ける、教育・・・・・結果、国力が落ちる・・・全てが、数字で勝敗が付くという、価値観に成って行く。

数値的に、少なければ、勝負も出来ない・・・之が現実だし、現実主義と成る、価値観に付かづく・・・

何度も書くが、権力側、力が有る側に取って、従順な人と創っている事に成る。

日本人が、尊敬されている部分は、恐れの部分に成る・・・・大儀が有れば、自分の身を惜しまない・・この精神性に有る。

この部分を、戦後・・・無くす為の、教育や憲法に成っている。

結果、小さな基本的、集団の家まで、崩壊に向かっている。
当然、一族の崩壊も・・・之が意味する事は、地域社会の崩壊は当然、国の崩壊に向っていると言うより、成ってしまっている。

若し、ブローバルカ化が、標準化と成れば・・・言葉等々の部分まで、成ってしまえば、国の括りも崩壊し・・・国を捨てる人が出て来ることに成る。

しかし、面白い事に、国を捨てた、人が、権利が有ると、言える、これが日本国である。
之が、家の単位、一族の単位でも、起きている。

私は、生きる事は、環境を創り出している、同時者と言う事・・・その事は、何人を不幸にしたか、これも行っている事に成る・・・環境を崩壊する働きをしたら・・・現代は、得する流れも有る。

何かが、間違っている・・・価値観の根本部分まで、崩壊しだしている事に成る。



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