幸・不幸を何故、感じるのか????
私は、人の価値観の基本に成っている部分の捉え方が影響していると考える。
人は、一人では生きて行けない・・・之は原理だと考える・・・しかし、この人の中でどう生きるか????・・・・この目的が、勝つ為等々・・・対比で良いと思える方向に向かう人が多い・・・・・しかし、勝や良い方向と言う部分も、人の価値観に成るし、社会の教育で身に付く部分に成る。
諺に「負けるが勝ち」と有る・・・勝敗も、考え方、人の価値観で変わるという事になる。
多々の勝ちが有るという事に成るし・・それが人の数あるという事に成る。
私は、現代・・・還暦前の歳に成る。若し、若者と比べると・・・劣っている部分が多い、之を不幸とは考えていない・・・分相応と同じで、歳相応と言うものもある。
違いが、ハッキリしている部分では・・・比べない・・結果、近場の同じ、レベルの中での対比・・・「どんぐりの背比べ」で・・・幸・・不幸を感じている可能性が高い事に成る。
よく考えると、大事な集団・仲間に成る・・・・・この集団を守る、これが一番大事だと思うが・・・何故か、集団を崩壊させる方向の、競争を、心が起こしている事に成る。
之を、避ける為に・・・一般的には、他の集団を仮想敵として・・・集団を統制する方向性が、良いという流れも存在する。
相手を知らない、無知が、これを加速させるが・・・現代は情報が多々あるので、仮想敵を創る、これも難しくなっている。
要は、集団に属しない、方が良いという事に成るが・・・個なら・・対比もしないので、幸・不幸も大きく感じないはずだが・・・現実は、他人と対比しているし、集団に属している事に成る。
私は昔の事を、書くが・・・・・終戦後の混乱期を過ぎた時に、子供時代を過ごした。
今考えると、楽しかったし、正直、幸せだったと思っている。
焼け野原の日本と言われ・・・復興の渦中に過ごしたことに成る。
状況・現実は・・・現代の価値観なら、不幸に成る・・・又、悲惨と思える。・・・・しかし、当事者の私は、幸せと感じていた事に成る。
この部分が、境遇と境涯の違いに成る。
唯物的部分は、不幸だが・・・唯心的部分は、幸せと・・・感じていた事に成るが・・・
何故か、五体から得る、情報は唯物的部分に成るが・・・それを頭が、どう判断するか????・・・・当然、近場の仲間・一緒に生きている、他人との対比も加味されて頭が判断している。結果、不幸とは感じていなかったことに成る。
若し、現代の価値観で、その当時を、見れば・・・・基本的人権等々を無視し・・・虫けらの様な、環境に成るかもしれないが・・・
しかし、虫けらと思われていても、当事者が不幸と思わなかったことに成る。
生きると言う事は、基本、現実を受け入れる、これが最低限の基本に成る。
若し、現実に問題を感じたら・・当然、それを改善する義務が有る事に成る。
現実に対しての、挑戦に成る・・・簡単で無いし、不可能に近い・・・それでも義務を果たすとの思いが、使命と成る。この部分が有る事が、一番の幸福だと私は、考えている。
理由は、生きる意味の大儀に成るからに成る。
若し、この部分を、責任と感じる事が出来れば、責任者のレベルと言う事に成る。
この部分を、我関せず・・・現場逃避の部外者と言う事にも成る。
現実を生きる、当事者としての振舞いをしていれば・・・不幸とは感じないと私は考えている。
どんな環境で有れ・・挑戦続ける使命を持てば・・幸せと言う事に成る。
決して、形や物で無い・・・・心の部分に成る。
しかし、現代は、唯物的部分が、中心に成っている・・・その様な価値観を、社会全体が教えている・・・人間教育と言うより・・・一流の消費者を創る教育に成っている。
誰が、人間教育をするのか????・・・・
本来、子育てで・・・・母親の使命に成るが・・・見かけ重視に母親も増えている・・・・
人間を、創っているのか???・・・・男を育てているのか????・・・・之を、言えば、差別者と言われる現代・・・
怖い、世の中である。
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